11/18 若い人のための日曜日の聖書  年間第33主日 マルコ 13:24-32

「明日、この世が終わるとしたら、あなたは何をしますか?

教師をしていた時、初めての宗教の時間によくこの質問を使いました。目に見える世界から、見えない世界へと生徒を誘導する質問です。

答えは、たいてい二派に分かれました。

「愛する人、大好きな家族と共に過ごしたい」「一番好きなものを食べたい、行ってみたかったところに行ってみたい」といった、幸福感を求めたり、再確認する派。

そして「何も特別なことはしない」という派。

考えてみれば、特別なことをしない人、は現在が十分満ち足りているのかもしれません。

「たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はりんごの木を植える。」

かのマルティン・ルターの名言です。「りんごの木」が何を意味するかについては、(アップル社のりんごマークのように)諸説がありますが、彼らしい潔さと力強さ、そして何よりもあつい信仰が感じられます。

教会の暦ではまもなく年末。今年は12月2日の日曜日から新年である待降節が始まります。そして待降節前の福音朗読は必ず世の終わりの部分です。

この部分は、私には長い間ピンときませんでした…と、今は過去形で書けるのは3.11を経験したからです。世は終わらなかったですが、突然何かが起こって「根こそぎにされる」という体験を、個人でなく集団でしたわけですから、これを「終末体験」といってもいいでしょう。

今回の聖書箇所も、ついつい天変地異のところに目が行ってしまいがちですが、大切なのは、そのような終末的出来事の中で、イエス様はご自分がお選びになった人を四方から呼び集めてくださる、というのです。

「私なんて選ばれていない」とむくれているのは誰ですか?

イエス様を知っている人が、イエス様に選ばれていない、なんて考えてもだめです。あなたがイエス様を知っているなら、イエス様はどれほどあなたを知り、愛してくださっているでしょう。洗礼なんて関係ない、と言ったら教会に叱られそうですが、洗礼はこの世において信仰を公にする行為です。この世でなく永遠の神様にとって、洗礼の有無より「あなた」が大切なのだ、ということを忘れないでくださいね。

≪聖書箇所≫ マルコ 13:24-32

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」

ルターがヴィッテンブルグの教会に『95箇条の論題』を貼りだして500周年だった昨年売り出されたらしいフィギュア(カトリック用語で言えばご像!)