8/18 若い人のための日曜日の聖書  年間第20主日 ルカ 12:49-53

クーデターの前年の独立記念日(9月15日)に行われた平和行進

自分がクーデターが起こっている国にいる、この信じられない体験を私は2009年にホンデュラスでしました。

6月のある日曜日の朝、目覚めてすぐたまたまテレビをつけると、画面に大きく映っていたのは、なんとパジャマ姿のホンデュラス大統領でした。彼は前夜に寝室から引きずり出され、すでにコスタリカに移送された後でした。
政治的な詳細は、ここには書ききれませんが、この後ホンデュラスという国はしばらくの間、真っ二つに分かれました。地域共同体も、教会も真っ二つ。
その中で、私たちの修道会の姉妹たちの多くは、コスタリカに逃れた大統領を支持しました。中米の地区長(この時の地区長は非常に聡明なアメリカ人でした)からは、あまり過激な行動に出ないように、というお達しがありました。別の修道会で、どちらの側にもついてはいけないと言う考え方の会もありました。修道者として、どちらの側の人も排除してはいけないと言う考え方です。

3.11の時も同じでした。
私はその時、福島のカトリック学校桜の聖母学院で働いていましたが、生徒の中には東京電力で働いている親を持つ人もいましたし、浜通りから避難してきて、お父様だけ放射能拡散の収束のために命がけで働いているという人もいました。単純に東電が悪いと言ってしまえば、罪のない生徒を傷つけることになります。
教師としても、修道者としても立場を明らかにすることは非常に難しいと思われました。

イエス様は今回の福音で、何を私たちに求めていらっしゃるのでしょう。火を投じるの「火」とはなんなのでしょう。宣教への熱意でしょうか。それはどうしたら、この世に投じることができるのでしょう。叫べばよいと言うことでもないでしょう。

カトリック教会では、どの地域でも、8月15日ころ平和のための祈りが捧げられたり平和のために行進したりします。ある神父様は、行進に参加していらっしゃいましたが、聖歌が終わってシュプレヒコールが始まると、そこをそっと抜けてしまったそうです。

「原発ハンターイ!」とか「九条を守れーっ」とか、正しいことではありますが、デモ隊のように叫べば伝わるのでしょうか?叫んだだけで、聞く人の心を揺り動かすことができるのでしょうか?

平和とはむしろ、理解されない分裂の中で、葛藤しながら実現を目指していくものではないでしょうか。この現実をイエス様は、親しい人との対立として、つまり最も辛い対立として表現されていらっしゃるように感じます。

そしてその実現のためには、イエス様の受難と死が必要であったのであり、二千年前と同じく今も必要なのです。

イエス様、「あなたの平和の道具」に、どのようにしたらなれるのか、私に、私たちに教えてください。  (Sr.斉藤雅代)

≪聖書箇所≫ ルカ 12:49-53

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」