9/1 若い人のための日曜日の聖書  年間第22主日 ルカ 14:1, 7-14

 

先日調布修道院で行われた若手シスターズの集いの閉会ミサ。ミサこそ宴会!最後は年配の姉妹から司式の神父様まで踊りはじめました。

「私の席は?」

カトリック学校の教師をしていた20年の内、2年ほど「副校長」という役職をいただいていました。その前年まで存在しなかった役職です。最初の一年は、入学式やら卒業式やら行事のたびに、私の座る席がありませんでした。理事長―校長―教頭の順だったところに、副校長が形として割り込んだわけです。行事の時に席を割り振る係の先生や事務の方は、前年度の資料をPCで開いて、機械的に年度や日付を更新し、大きな変更がなければそのまま印刷してしまいます。それで、私の席がない。もちろん、一般の教員席に座ったっていいのですが、後で、座席表を作った方が私にお詫びに来るより、早いうちに解決しておいた方がよいだろうと思って、打合せの時など気付いたらすぐ声を上げるようにしていました。その内、「私の席も作っておいてね」と前もって、茶目っ気たっぷりに口に出す技も覚えました。

さて今回の福音箇所、「イエス様のおっしゃることがあまりにも世渡り上手的でいやだ」と言った人がいました。なるほど、わざと末席に座る人より、上席に着こうと他人を押しのける人の方が単純で理解しやすいとも言えます。

いずれにせよ、イエス様のおっしゃりたかったことは、神の国の価値観は、この世の価値観とは逆行しているということ。「高慢な人は神様によって低くされるが、謙遜な人は神様が高めてくださる」。

そして私は思うのです。注意すべきは、この価値観を表面的な行動のみにとどめる「世渡り上手」にならないこと。そのために、イエス様は続けます。「パーティーをするなら、お返しのお招きができないような人を招こうよ。それが、神の国の実現だよ」。

さて、私の心の中で、神様はどんな席を占めていらっしゃるのでしょう。神様にいつも上席に就いていていただいているでしょうか。

「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ」(ルカ1:51f)と歌ったマリア様、神様が私に向かって「私の席は?」と尋ねることのないように、私のために賢慮の徳を願ってください。    (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ ルカ 14:1, 7-14

安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。
イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」