9/29 若い人のための日曜日の聖書  年間第26主日 ルカ 16:19-31

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「どうしてだれも助けてあげないの!」

サレジオ会の若者司牧担当、佐藤直樹神父様が、一か月くらい前に、私たちのミサのお説教として話してくださいました。
ある若い女の子が乗り合わせた電車の中に、気分が悪くなって嘔吐してしまった人がいた。皆その人の席の周りから黙ってさっと離れ、その人の周りには空間ができている。彼女はその中に入って、その人を介抱したそうです。

そしてその後に言った言葉が「どうして誰も助けてあげないの」。

私はこの話を聞いたときに、「私にできるかなぁ」と考えました。多分できる。でもその時になってみないと、人間てわからないものだから、もしかしたら知らん顔して逃げちゃうかもしれない。

さて先週のことです。朝早くもう1人のシスターと一緒に電車に乗りました。縦に長く伸びる、進行方向に対して横向きの座席です。ある瞬間に、私たちから離れた方から1人、2人、3人とさっと見る身を翻して立ってそこから遠ざかった人たちがいました。見ると私たちの並びのずっと先の方で若い男性が嘔吐していました。汚物がこちらに向かって流れてきます。私ともう1人のシスターも、床に置いていたバックを急いで座席の上に持ち上げました。そして私たちはまず、自分のバッグの中にビニール袋がないかと探しました。

袋、袋、袋…。

残念ながら私のバックの中にも彼女のバックの中にもビニール袋はありませんでした。

私は思わず周りの人に向かって叫びました「誰かレジ袋持っていませんか」。

すると近くの人の手が伸びて、さっとレジ袋が私に渡されました。

私はその男性の反対側に回って袋を持たせ、隣に座ってしばらくその男性の背中をさすりました。

また誰かの手が伸びて、ティッシュペーパーが私に渡されました。次にもう一枚のレジ袋。

もう1人のシスターは、反対側の座席に座って平然とスポーツ新聞を読んでいた男性に近寄り、「その新聞紙を少し分けてください」と言いました。後で聞くところによると、その人はしぶしぶ新聞の1部を彼女に渡してくれたそうです。

私たちはその新聞紙を彼の足元に敷きました。次に私たちは、車掌さんに連絡を取るための何か呼び出しボタンのようなものがないかと探しました。車内には、緊急停止ボタンしかありませんでした。私たちがボタンを探していると、周り中の人たちも黙って一生懸命車内を見回して何かボタンがないかと探してくれました。そして次の駅に着いた時に、1人の静かな感じの女子高生が私に小さな声で、「私、駅員さんに連絡します」と言ってくれました。

やっと落ち着いた彼は、そのままそこから30分ほどの目的の駅まで乗っていく、と言います。強いアルコールの匂い。二十歳前後の年頃のようでしたから、身の程知らずに飲んでしまったのかもしれませんし、飲まされたのかもしれません。呼吸も落ち着いていたようだったので、会議に参加するためにその電車に乗ってた私たちは彼を置いて先に降りました。そして念のために、駅員さんに再び私たちの乗っていた号車番号と彼の降りる駅を伝えました。

さて、もし「どうしてだれも助けてあげないの!」と言った女の子の話を聞いていなかったら、私は同じことをしただろうか、と考えてしまいました。そして、この後で佐藤神父様にお会いした時に、「彼女にお礼を言ってください」とお願いしました。

彼女の勇気を、彼女と同じ電車に乗り合わせた人は見ていたはずです。また、佐藤神父様のお説教にとって、私たちも彼女の勇気を知りました。そして私たちの行動も、同じ電車に乗り合わせていた人は見ていました。その中の何人かの人は協力してくれました。結局、「何かしてあげたいけれど、どうしたらいいのか分からない」ということかもしれません。そして、だれかを見ていたら、協力できるし、次はその人自身が率先して行動してくれるかもしれません。私たちは神様によって、大きな善意の輪の中にいるのだ、と実感されました。

今回の福音箇所の「金持ち」は、自分は奢侈な生活を送りながら、死ぬまで門前のあわれな人には気付きません。いえ、少なくとも「自分の家の門前にいるラザロ」の顔も名前も知っていながら、おそらくそこを通る時には見ないようにしていたのでしょう。「旅をしていたサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い」(ルカ10:33)、そして介抱したのでした。

私たちの目を、耳を、助けを必要としている人を察知するために使いましょう。おそらくだれよりも周りの人の必要性に気付くマリア様、私たちもあなたを見習っていくことができますように、祈ってください。 (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ ルカ 16:19-31

(そのとき、イエスはファリサイ派の人々に言われた。)「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」