12/15 若い人のための日曜日の聖書  待降節第三主日 マタイ 11:2-11

昨晩の高幡教会のテゼの祈りの準備の様子

現代の預言者、と言ったらだれでしょう。

数日前にアメリカの雑誌『タイム』に、「今年の人」として取り上げられたグレタさんを思い浮かべずにはいられません。

「今年の人」の選考基準は、いかにその年に話題になったかで、そこに善悪判断は入っていないようです。歴代の「今年の人」は政治家が圧倒的に多く、ヒトラー(1938年)まで、入っています。

それにしてもマララさん(今年の人にはなりませんでしたが、ノーベル平和賞受賞)にせよ、グレタさんにせよ、少女でありながら社会を相手にひるまない姿は多くの「大人」に勇気を与えてくれました。

そして私は思うのです。マリア様が現代社会に生きていらしたら、きっとこのような少女であったろうと。名画や彫刻に残された美しい繊細な姿より、たくましく発言する姿。だって、あのイエス様を素建てか方ですから。

さて、今回の福音箇所の主人公は、時の為政者を非難したかどで牢獄に捕らえられている洗礼者聖ヨハネ。古代であれば、裁判はあったとしても形ばかり。死刑は免れないと覚悟していたことでしょう。
迫りくる死を目前にして、彼の望みはただひとつ。

自分が先駆けとなっているはずの救い主とはだれかを知りたい。分からなければ、死んでも死にきれない。

「あなたなんですか? 別の方ですか?」

この切実な問いかけに対して、イエス様は答えます。

「現実が変わりつつあることをよく見てごらんなさい」。

そう、イエス様の到来によって、人々の本当の目が開き、本当に歩けるようになり、本当に癒されたのです。奇跡は、それをもっとよく目に見える形にしたに過ぎません。大切なのは、イエス様に関わっていただいて、変化していくこと。

待降節の姿勢である「待ち望む」は、口を開いて棚から牡丹餅を待つこととは違います。

希望をもって変化を受け入れ、恐れないこと。

ご降誕まであと10日です。どれだけ変化を受け入れられるか、試してみませんか。   (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ マタイ 11:2-11

(そのとき、)ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。
『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』
と書いてあるのは、この人のことだ。はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」

引っ越したばかりの修道院にやっとクリスマスツリーを飾りました