2/2 若い人のための日曜日の聖書  主の奉献の主日 ルカ2:22-40

フランス・バロックの画家シモン・ヴーエの「主の奉献」。低空飛行の天使が圧巻です。

このところ、私のまわりは妊娠ラッシュ、出産ラッシュです。ちょうど教師生活の最後に教えた生徒たちが「お年頃」であるせいでしょう。ある人はFBやMessengerで報告し、またある人は直接大きなおなかをかかえ、あるいは赤ちゃんを連れて、見せに来てくれます。

赤ちゃんが生まれる―それは、たいていの人、お母さん、お父さん、家族や親族や友人にとって喜ばしいことでしょう。そして、だれもが「この子が無事に成長するように」「幸せであるように」と祈らざるをえません。

さて、2月2日はイエス様のお誕生の12月25日から数えて40日目。当時のユダヤ社会で重んじられていた律法の定めたとおりに、マリア様とヨセフ様も赤ちゃんのイエス様を神様に捧げるために神殿に連れて行きました。(日本のお宮参りが、男の子の場合31日目、女の子の場合33日目というのと、似ていますね。)

ところがそこで出会った老人シメオンは、イエス様を抱っこして神様を讃えた後、不思議なことを預言します。

イエス様がやがてある人にとっては災いになること、イエス様の存在そのものが否定されること、そして、マリア様も同じ苦しみを味わうであろうこと。

私たちは、これらの言葉がイエス様の生涯をすべて表していると知っていますが、単に生まれたばかりの赤ちゃんとその両親に向かって言われた言葉として聞くと、何とひどい言葉でしょう。

でもまさに、ここがイエス様の生涯の出発点なのです。おとぎ話のようなクリスマスのストーリーを締めくくるこのエピソードを、私たちはしっかりと受け止めなくてはならないと思います。

キリスト者であるということは、さらに奉献された修道者であるということは、存在そのものを否定される方に「どこまでも付いていきます」と申し上げることです。

神様、そのように言える恵みを、そしてそれを果たす恵みを、どうかお願いいたします。

ちょっと気にかかるのは、もう一人の老人アンナは、シメオンの言葉を聴いていたのかしら、聞きつけて近寄ってきたのかしら、ということ。彼女は、聖家族になんと語りかけたのでしょうね。

(Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ ルカ2:22-40

モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親は(イエス)主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。
そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」《父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。
親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。》