3/22 若い人のための日曜日の聖書  四旬節第4主日 ヨハネ9:1-41

「目に見えないけれど、確かにあるものは何でしょう?」

以前、中学校で宗教を教えていた頃、中1の最初の授業で、必ずこの質問をしていました。

学校の授業の中で扱われるものは、目に見えるものがほとんどですから、彼らは一所懸命考えます。

空気・・・風・・・熱・・・

痛み、などという答えもありました。

そして、愛、友情、希望、幸福・・・

今だったら、最初に出て来る答えはウイルスや細菌かもしれませんね。

私たちの生活全体が、新型コロナウイルスに支配されている感がありますから。

今回の福音箇所で、イエス様は生まれつき目の見えなかった人の目を開いてくださいます。この話を「障がい者から障がいを取り除く癒しの奇跡」と文字どおりに捉えることもできますが、私の心に今回響いてきたのは、別のことでした。愛や友情や希望や幸福などが見えないために、時にその存在を疑ったり、あたかも存在しないかのように振舞う私の目を開けてくださるのが、イエス様のお仕事、つまりイエス様は見えない私の目を開いて救ってくださる方なのだ、ということでした。

また同時に、神様は、新型コロナウイルス騒動のような厄災によって、何かを見せてくださる方だ、ということです。

イタリアの病院の緊迫した映像を見て、心の痛まない人はいないでしょう。ミラノの大司教様がお医者様や看護師さんなど医療関係者を祝福していらっしゃる画像にも心を動かされました。また、聴診器を首に掛けたイエス様が、息も絶え絶えな地球を抱いていらっしゃる絵も。

もっと身近なところでは、修道院に隣接する幼稚園の園長シスターは、「先生方に使っていただきたい」とマスクをもってきてくださった保護者に感動して、「ありがたい、ありがたい」と繰り返していました。

さて、福音書に話を戻すと、このイエス様の「何かを見せてくださる」という行為が、まさしくユダヤの既存の宗教家たちの逆鱗に触れるのです。彼らは、人々、特に一般の民衆が、見えるようになっては不都合なのです。それで執拗に、この奇跡を追及し、イエス様の非を見出そうとします。ここにはまた、別の「見える」が働いています。

私たちは、コロナ騒動の中で、何を見て、何を判断し、どのように行動しなくてはならないでしょうか。

今、修道院で毎日唱えている、英隆一郎神父様(聖イグナチオ教会主任司祭、イエズス会士)の祈りの一節をご紹介します。

私たちが不要な恐れにふりまわされることなく、適切な行動をとることができますように。

四旬節にあたり、私たちがまず日頃の生き方をふりかえり、回心することができますように。

今回の危機を通して、私たちがあなたのみ心にかなった生き方を見いだしていくことができますように。

(Sr.斉藤雅代)

※画像は、医療関係者に祝福を与えるミラノの大司教様。そして、地球を抱く、ドクター・イエスです。

≪聖書箇所≫ ヨハネ 9:1-41

(そのとき、)イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。《弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、》イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。《そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。》
人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。《それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」》
彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼は、「主よ、信じます」と言って、ひざまずいた。《イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」》

医療関係者を祝福するミラノの大司教様