あなたは休むことが得意ですか? 苦手ですか?
私は、若い時は時間がもったいなくて、休むことができませんでした。「しなくてはならないこと」をできる限り効率よく片付けて、「したいこと」をする時間をひねり出していました。
今は相応な年になり、今度はいったん休み始めたら二度と立ち上がれないような、元のペースに戻れないような気がして、やはり休むことは苦手です。そして、何とか「したいこと」をする時間をひねり出しているところも同じ。
その私に向かって、イエス様は「休ませてあげよう」と声をかけてくださいます。
イエス様は私にどのような「休み」をくださるのでしょうか。
こんなことを思いめぐらしながらここ数日を過ごしました。
音楽を聴くとリラックスできるという人がいます。私はだめ。音楽は楽しいけれど、「研究する楽しみ」の対象だから。
眠る、という人がいます。私も眠るのは大好き。でも、若い時のように何時まででも眠れるわけではありません。
では何が私にとって、リラックスできる「休み」?
結局、結論として見出したのは、いつもの仕事(ただし、PCやスマホ以外)をゆっくり味わいながらすること、でした。
ゆっくり、庭の草取りをする、コーヒーを淹れる、ぬかみそをかきまわす、本(好きな小説!)を読む、楽器をさわる・・・等々。
ちょっとつまらないような、しゃくなような(しゃくだと思うのは、もっと非日常的はカッコイイものじゃないから!)気もしますが、これが私なのだから仕方ありません。
イエス様、あなたのくださった「休み」をもっと味わわせてください。そして、宣教への活力をっください。
それから、本当は軽いのについつい勝手に重くしてしまう「軛」を、そうしないように助けてください。
マリア様、あなたもきっと、イエス様のそば近くで、あるいはイエス様から離れてイエス様を思いながら、きっと日常生活を大切になさったのでしょうね。 (Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ マタイ 11:25-30
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」