3.11の直後、私は毎晩携帯をフルに充電していました。
学校で被災し、その夜とうとう家からのお迎えがなかった高校生20名を連れて修道院に向かうにあたって、修道院との唯一の連絡手段は、携帯メールでした。
大きな余震が来てまた停電したら、と思うと、携帯を充電しておかないと不安で不安でたまらなかったのです。
今回の福音箇所の10人のおとめのともし火と油の話を読んで、ふと、この時の「いてもたってもいられない感じ」を思い出しました。
不安で不安でたまらないという気持ちは、神様の到来を待って目を覚ましている、という状態とは違うでしょう。
しかし、世の終わりが近い、と感じていた新約聖書が書かれた当時のある人々は、切実にいてもたってもいられなかったに違いありません。
それから2000年。
私たちは、目覚めていなさすぎるかもしれません。
いつ終息するともしれないコロナ禍、唯一の被爆国でありながら核兵器禁止条約の批准に加わらない日本、いつ決着がつくのかはっきりしないかの国の大統領選挙とそこから見えてくる民主主義の終末のような喧噪・・・
神様は、私たちが目覚めて生きるきっかけをいつもくださっています。
せめてそれに気付いて、少しでも目覚めていたいです。たとえ、何もできなくても。
もうすぐ、待降節。カトリックの暦の一年の終わりにいることを意識して、目覚めた丁寧さで生きていきましょう。
(Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ マタイ 25:1-13
(そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。)「天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」