6/6 若い人のための日曜日の聖書 キリストの聖体の主日  マルコ 14:12-16, 22-26

「最後の晩餐」と言えばかのレオナルド・ダ・ヴィンチの傑作。

深く静まりかえったイエスと、「まさか俺じゃないよね」と色めき立つ弟子たちの対比を遠近法のお手本のような空間に表現しているその力量は、まさに「天才」「巨匠」の名にふさわしいものです。

彼の捉えた一瞬は、マタイ福音書の26:22とヨハネ福音書の13:24を繋げて構築しなおしたストーリーの中の一瞬で、4つの福音書のどれにも存在しない「瞬間」です。でも、大いにあり得る「一瞬」であり、この絵の前に立つ私たちを否応なくストーリーの中に引きずり込みます。

それにしても、これに与った弟子たちにどれくらい「これが最後」という感覚があったでしょうか。

それまで何回か共に過ごしてきた「過ぎ越しの食事」の時とは違い、何かただならぬ雰囲気は感じていたと思います。

三回にわたる受難の予告、それをさらにたとえに仕立てた「ぶどう園と農夫」の話。

これらの間を縫って、エルサレム入城時の人々の興奮、神殿の清め、終末の描写。

そのイエス様の緊張感を肌で感じたからこそ、弟子たちは逆にたがが外れたような状態に陥って、だれが一番エライのかと喧嘩をはじめ、さらにヤコブとヨハネは「今のうちに表明しておこう」とばかり、「革命が終わったら、僕たちをエライ地位に付けてね」と頼み込むのです。イエス様は、この弟子たちの無邪気さにがっかりなさったでしょうか。

「あれが最後になると分かっていたなら…」

9.11の追悼集会で朗読されたというノーマ・コーネット・マレックの詩「最後だと分かっていたならTomorrow Never Comes」(作られたのは、1989の息子さんの死の時)。

それを元に上村幸一郎さんが作曲されたこの聖歌は、原詩に加えて「主よ、どうか知恵を与えてください、本当に大切なものを識別できるように。も一日力の限り愛に生きられるように」と締めくくられます。とてもキリスト教的な素晴らしい付加だと感じます。

でも、もしかしたら、最後は…分からない方が幸せかもしれません。神様が私たちをそのようにお創りになったことを考え合わせると、私にはそのように思えます。

おそらく最後だとは分からなかったけれど、弟子たちには、イエス様からの大切なメッセージのエッセンスが残りました。そのひとつが、聖体の制定、つまり、イエス様がパンをご自分の体そのもの、ぶどう酒をご自分の血そのものとして私たちに与えてくださったことです。これを、カトリックでは、ミサごとに記念として繰り返します。イエス様の現存がもっとも強く感じられ、イエス様との一体感を体験する時です。「私の最後まで、このイエス様と共に生きていこう」と実感できる時です。

イエス様、ご聖体とおん血を感謝いたします。今年の聖体の主日を緊急事態宣言のためにごミサに与れない信者さんもたくさんいるでしょう。その方々が、どうか来年のこの日はもっとご聖体を通してあなたに繋がれますように。無邪気な弟子たちを忍耐されたイエス様、私たちにも忍耐をお与えください。

(Sr.斉藤雅代)

≪聖書箇所≫ マルコ 14:12-16, 22-26

除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。