9/19 若い人のための日曜日の聖書 年間第25主日  マルコ 9:30-37

「結局、一番子どもなのはだれ?」

今回の福音箇所で一番気になったところです。

旅の途上で、受難、死、復活という重大事を打ち明けるイエス様。

よく理解できないながらも怖くて内容が確認できない弟子たちは、あたかも、その不安感を払拭するように、「だれが一番エライか」と言い争いを始めます。

もちろんイエス様は、「おれだ」「いや、おれだ」と自己主張し合う弟子たちの様子をご存じだったに違いありません。それでも、「途中で何をガチャガチャやっていたの?」と尋ねます。

それは、次の言葉をしっかりと言い聞かせたかったからかもしれません。

「一番エラくなりたかったら、みんなに奉仕して、自分のことは最後にしてごらん。それが、エライということだよ。この子どもを受け入れてお世話することが、私の弟子になり、天の父の子になるということだよ」。

明治学園の○○回生は、私にとってとても懐かしい学年です。私が赴任した時、彼らは中学2年生で、女子クラスはともかく、男子クラスでは小学校1年生から中1年生までの「おりこうさん」はすっかり影を潜めていました。そして続く5年間、彼らに宗教を教え続けたのですから、私は明治学園での10年間の半分を彼らと共に過ごしたことになります。その後20年近くの時を経て、今再び何人かとFacebookで繋がっていることは、SNSのマジックとしか言いようがありません。

さて数日前が、その中の一人であるK君のお誕生日でした。反抗期の彼は、頭がよかったがゆえに、「宗教なんて授業やっていられるか」という態度が見え見え。授業妨害をされたり、議論を吹っ掛けられたり・・・

そんなことを思い出しながら、メッセージを書きました。

 

K君、お誕生日おめでとうございます!

きっと今頃、小中高時代のやんちゃぶりはすっかりかなぐり捨てて、真面目な医療関係者になっていらっしゃることでしょう。

お仕事が、明治学園の卒業生にふさわしく神様のみ旨に沿ったものであるよう、心から祈ります。

新しい1年が、ご家族とともに、お健やかでお幸せでありますように!

 

少しして、こんな返信がかえってきました。

ありがとうございます、ほんと早いものですね。先生に無茶言って困らせた日々が懐かしいです。またいつか甘えさせて下さい。

あら、こんなに大人になった、と目頭が熱くなるのは、年のせいでしょうか。

だれがエライかという言い争いでとりあえず不安から逃れようとした彼らは、それだけイエス様に頼り切り、甘えていたのでしょう。まもなく、イエス様の死と復活を経て、彼らにも甘えてはいられない時が始まります。その直前の、師と弟子との親しい「ほっこりしたひと時」だったのかもしれません。

だから、初めに掲げた質問への答えは、この子どもでなく弟子たちだったと私は考えます。そして、イエス様の前でくつろいで甘えられる弟子たちの「子どもぶり」を見習いたいなあ、と。もちろん、現実の厳しさからは逃げません。逃げないためにも、イエス様、私にも甘えさせてください。

 

≪聖書箇所≫ マルコ 9:30-37

(そのとき、イエスと弟子たちは)ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」