10/3 若い人のための日曜日の聖書 年間第27主日  マルコ 10:2-12

カナの婚宴より

結婚! 婚礼! ウエディング!

何て素敵な響きをもった言葉でしょう。

シスターが結婚にあこがれるなんて、おかしいかしら?

私たち修道女は、自由意志でこの世では結婚しない生活を選んだわけですし、恐縮ながらイエス様の花嫁でもあるわけですが、それでも、この世の男女(今は、それ以外の性の組み合わせもあるでしょうが、一応男女としておきますね)の結婚は素晴らしいことだと思います。

ところが、まわりを見回すと、同世代の友人・知人の中には、①すでに離婚、②家庭内別居、③相手の悪口ばかり言っているけれど本当のところは???、などというカップルばかりで、現実はなかなか難しいようです。かと思うと、奥様がちょっと難しい病気にかかったとたん、ご主人様がものすごく優しくなったという話もあります。きっと、空気のような存在で、存在するうちはあまりありがたみがないのでしょう。

神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。

このイエス様の言葉を根拠に、カトリック教会ではいまだ離婚というものが認められていません。別居は許されていますが、離婚がないということは再婚も(死別以外は)ありえないということです。このカトリック教会の在り方に対して、私自身はコメントする立場にないと思っています。

それにしても、友情も修道生活も「神が結び合わせてくださった」とは言われていないのですから、イエス様、そして福音書を編集した人々、さらには福音書が成立した当時(1世紀)の教会が、いかに結婚を大切にしていたかがうかがわれます。

他の人間関係と比べて結婚が特別なのは、心だけの繋がりでなく、心と体の両方で繋がる、という点でしょうか。だから本当に強い繋がりのはずです。どんなに努力しても神様とは体では繋がれません。そして、心と体で繋がるくらい心だけで深く繋がりたいと望んでいますが、結局のところどれほど深いのか、イエス様に確認することもできません。せめて、日々、私のイエス様への繋がりを深めてくださいと祈り続けるだけです。イエス様、どうぞ祈り続けさせてくださいね。

 

≪聖書箇所≫ マルコ 10:2-12

(そのとき、)ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」