先週私は、ルカによる福音書4章で宣教活動を始める「カッコイイ」イエス様に見惚れ、「でも、現実はどうだったのでしょうか」と筆が滑って、その箇所の続きである今回のところまでのエッセイを書いてしまいました。
ですから、第4主日はお休みにしよう、と考えていたのですが・・・
昨日(1/28)TVで放映されたひとつの事件の被害者である一人のお医者様の死に、いたく心を動かされました。殉職と言ってもいいだろうと思います。その方の、昨年9月のNHKの取材に応じた訪問診療の画像が残っていて、私は思わずTV画面をそのままスマホで撮りました。
その方は、目を潤ませ、声を詰まらせながらインタビューに答えていました。
「医者だからじゃなくて、無意識の『助けたい』というのが・・・理屈じゃないんですよね」。
福音書の中でイエス様が「深く憐み」とか、「憐れに思って」という箇所で使われているギリシャ語「スプランクニゾマイσπλαγχνίζομαι」は、内臓が揺り動かされ、かきむしられるような激しい思い、と言われます。
この方の画像に、イエス様が重なってきました。
このコロナ禍の時代、医療関係者が苦労に苦労を重ねている時代に、大阪ではクリニックに放火され、埼玉では猟銃が放たれ・・・何とも不条理な気持ちです。
「この人はヨセフの子ではないか」。
人であると同時に神であるイエス様でなくても、本当の「ヨセフの子」つまり人間であっても、イエス様のように生きることはできる、という確信が湧いてきます。
神様、この方々に永遠の安息をお与えください。そして、私たちが「一粒の麦」を忘れませんように。
≪聖書箇所≫ ルカ 4:21-30
(そのとき、ナザレの会堂で預言者イザヤの書を読まれた)イエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。