3/20 若い人のための日曜日の聖書 四旬節第3主日 ルカ 9:28b-36

修道院の中の春の息吹です。季節は着実に変容しつつあります。

ウクライナののあまりにインパクトの強い報道の影で、手放しで喜べなくなってしまった北京パラリンピック。

それでもニュースで見るアスリートたちの姿は、夏のパラリンピック同様に感激的で、まさに神様の栄光が現れていると思われます。

ヨハネ9章の中で、生まれつき全盲の人に関して、弟子たちがイエス様に「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。と問いかけた時、イエス様はおっしゃいました。

「神の業がこの人に現れるためである」

イエス様の変容の箇所が読まれるのは年に2回

今まで、当たり前のように読み過ごし、聞き過ごしてきましたが、改めて、私たちもこの「変容」に招かれているのだということが、今、心に留まっています。

洗礼の時、初誓願、終生誓願の時は、まさに神様が私自身を変容させてくださる潮時だったのに、どれほどその変容を意識し、深めながら生きてこられたか。いえ、変容させていただいているという感覚を日常の中に埋没させてしまったかと反省させられます。

他者の回心、世界の回心を願うより、まず自分の回心、自分の変容を心から願いたい、とこの主日に当たって新たに決心いたしました。

時を越えて待っていて下さる神様に信頼して、自身の変容を願いつつこの四旬節の日々を歩んで行きたいと思います。

私自身ではなく、神様の栄光を表すために。

 

≪聖書箇所≫ ルカ9:28b-36

((そのとき、)イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。