先週の水曜日、私は1人の姉妹とともに新しい宣教活動を始めました。
他の教区にある幼稚園の、園児、先生方、保護者の皆様への宗教の授業です。
もう1人の姉妹が園児の宗教(かみさまのおはなし、と言うタイトルが付いています)を担当し、私は大人の担当です。
実を言うと、長いこと修道会の学校に勤めながら(しかもその同じ学校に幼稚園がありながら)、私は1度も幼稚園児の宗教の授業を見たことがありませんでした。
いつも、自分の目の前の人たち(だいたい中高生)のことに忙しく、他部門まで見に行くと言うことが出来ませんでした。
幼稚園生への宗教ってどうやるのかしら?
ほとんど言葉も通じないのに…
ベテランのシスター星の「かみさまのおはなし」は、素晴らしいものでした。
ここに文章でお伝えすることはとてもできないのですが、園児の感覚をうまくとらえて、感覚と概念をやさしい言葉で結び合わせていくと言う作業でした。
長い間、思春期の人たちばかり扱ってきた私は、授業案を立てるとき、こう反応されたらどう答えようか、こんな質問があるかもしれないな、先回りしてどんなふうに説明したらこちらの授業案を根底から揺り動かされるようなおかしな質問が出ないかしら…そんなことばかり考えていました。
ところが、この人生経験二千日にも満たない小さな人たちには、水が海綿に染みていくように、先生の言葉が自分の感覚とつながってお腹の底に落ちていく。その様子が近くにいる私にもはっきりと感じられました。
もちろんこの子どもたちの無垢な信頼は、やがて反抗や懐疑を経て、あるいは捨てられ、忘れられ、あるいは大人の信仰として組み立て直されるのでしょう。
しかし、染み付いたものはお腹の底で消えないのではないか、と思わされました。
ヨハネ福音書の中の最後の晩餐の後のイエス様のおはなしは、夜明けまで続くかと思われるほど長いです。おそらく、この時に一気に語られたものではないでしょう。
でも、こうして書き残されているということは、イエス様の言葉の一つひとつがたとえその意味が完全に理解できなくても、弟子たちのお腹にしっかり落ちて、収まっていたからではないかと思います。
それは、相手が子どもだから、弟子だから、というだけでなく、この姉妹やイエス様の生き方が、言葉そのものであったから、とも思われました。
私は、この姉妹のように、イエス様のように、自分の語る言葉を生き、人のお腹の底にその言葉を届けてきたかしら、と反省させられました。
イエス様、今からでもまだ遅くないですよね。
「あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである」。
父である神様の言葉を聞き、それを生きているイエス様やマリア様や姉妹たちに助けられ、私も生きながら語る者にしてください。
約束の聖霊を待ちながら。
≪聖書箇所≫ ヨハネ 14:23-29
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。」