皆様、ご挨拶が大変遅くなりましたが、ご復活おめでとうございます。
聖土曜日から復活の週の前半にかけて、公私ともに様々なことが重なり、週の後半は体を休めたり、次の週から始まることの準備をしたりで、結局復活のご挨拶をしそびれてしまいました。
でも、今年の復活祭ほど、私にとって「復活」を深く感じさせられた年はありませんでした。
すでに何回かお伝えしていますが、四旬節の始まる少し前に、40年以上にわたって、お世話になったY神父様が帰天されました。
何かの折に、ご相談したり、愚痴を聞いていただいたりした方がいなくなってとてもとても寂しいのですが、同時に天国が今までになく身近に感じられるようになりました。
お葬儀の時に、お優しい院長神父様が「何か(形見として)欲しいものがありませんか?」と尋ねてくださったのですが、私は「何も入りません」と答えました。
40年間にいただいた様々な思い出とお手紙(最後の20年位はほとんどメールでした)だけで、私には充分だと感じられました。
そして、今年の聖土曜日、調布教会で、この1年半私が同伴させていただいた男性が洗礼を受けられました。お勉強していた時に、彼が「いつかモンサンミッシェルに行ってみたいんです」と言ったので、私はふと思いついて、「では、洗礼名をミカエルとしてはいかがですか?私がとてもお世話になっている神父様の霊名なので」とお勧めしました。彼は大変喜んで、この名を選んでくださいました。そもそもこの名は、その昔Y神父様が、宇都宮の松が峰教会で受洗された時に、ミカエル神父様と言うフランシスコ会士から頂かれたものだと伺っていました。そして、Y神父様が私の霊名をガブリエラとしてくださったのは、お祝い日が同じ日なので、忘れないようにとの理由からでした。こんなふうに、霊名が人から人へと受け継がれていくところにも、私は復活を感じました。
桜の季節はとっくに過ぎてしまいましたが、2月末の日経新聞の春秋欄でこんな言葉に出会いました。
「人々が飽きもせず花見を繰り返すのはなぜだろう。…昔の友人と数時間、花を見ながら川沿いを歩いた。話題はそれぞれの花見の思い出だ。花は同じでも仲間の顔は年々変わり、すべての花見は一度限りの体験だったと気づく」。
これを読んだとき、私が思いを馳せたのは、聖母マリア様の復活体験です。そう、書き留められることを望まなかったマリア様の復活体験。すでに終わってしまった、そして限りなく未来に開かれている「一度限りのこの世でのイエス様との体験」を、マリア様は、だれにも踏まれる前の新雪のように、色の変わる前の桜吹雪のように、大切にされたに違いありません。いつの日か、天国でマリア様から直接、「復活体験」を伺いたいです。
≪聖書箇所≫ ヨハネ20:19-31
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。