2017年9/17 若い人のための日曜日の聖書  年間第24主日  マタイ18:21-35

「先生、490回赦して、491回目からは赦さなくてもいいんですね!」と今回の福音箇所を読んで言った男子中学生がいました。

数字と計算が好きで、どこかの数学の先生になっている人の発言だったかもしれません。

「聖書逐語霊感説」という立場と取る人たちがいます。

聖書に書いてあることは、神様からの霊感によるものだから、一語一句そのまま受け取るべきである、という考え方です。

彼は、立派な逐語霊感説者と言うべきでしょうか。

きっと神様は、「君は計算がよくできるね。でも、私の計算は君の計算とは違うよ」とおっしゃるに違いありません。

 

さて、今回の福音箇所の中心人物は、「自分は赦してもらったのに他の人を赦せない人」です。

そう、神様に赦されてこの世に生かされているのに、周りの人に対して不平不満ばかり抱き、時にわめいたり、皮肉を言ったりする私たちのことです。

実際には、490回でなく無限に赦しなさいと勧められているわけですし、第一、兄弟(隣人)が私に490回も「罪を犯す」などということは現実にはありえません。

ただ、その人の考え方ややり方が私とは異なっていたり、私が「面倒だけど仕方なくしていること」をその人がしなかったり、「したいけれど我慢していること」をその人が平然としている―そんな時に私はかっとなるのです。

ちょうど、放蕩息子の兄のように。

「赦せない人」から脱するための唯一の方法は、「赦されている私」言い換えれば「愛されている私」に深く気づくことです。

神様からのラブコールは、多種多様です。

周りの人からの親切、愛情、自然の美しさ、芸術作品―それらを神様からのプレゼントとしていただきましょう。

そしてあなたも、家族に、友人に、恋人に、自分の伴侶や子どもに、愛情を表現することを惜しまないでください。 (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ マタイ18:21-35

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」