ひとつの学校で何年間か教師をしていると、兄弟姉妹を受け持つ、ということが起こります。
下の子に、「あなたのお姉さん(お兄さん)を知っているわ」と言うと、たいてい喜んでくれますし、その生徒と親しくなれます。
間違えて、お姉さんの名前で何度か呼んでしまった人もいました。マリコさんとマサコさん。
その生徒は「慣れてますから」とゆるしてくれました。
しかし、容姿や名前が似ていても、性格は結構違っていたりします。
ですから中には「家庭内でどのような関係にあるか分からないから、兄弟関係については一切口にしない」という教師もいます。
これも、一理あると思います。
さて、聖書の中には兄弟姉妹の話がたくさん出てきます。
今回の箇所の他に、有名な放蕩息子のたとえ、マリアとマルタとラザロの三兄弟、旧約聖書にもカインとアベル、ヤコブとエサウ、ラケルとレア、ヨセフと兄弟たちなど。
面白いことに、しばしば兄弟姉妹たちが対照的な性格をもって描かれています。
私はいつも思うのですが、私の中には両面がある、ということです。
今回のたとえで言うなら、「はい」と答えて行動しない私と、「いいえ」と答えながら行動する私です。
もちろんイエス様は、当時の社会的地位の高い人たちが実は口先だけであり、逆に社会的に軽蔑されている人たちの方がよほど神様のお考えに沿って生きていることを、このたとえを使って述べたのです。
ここに、イエス様の人間観察の鋭さがあります。
「はい、と答えて行動するタイプ」は出てこないのです。
今、たまたま私が読んでいる司馬遼太郎の『坂の上の雲』に、「良質な従順」という言葉が出てきました。
師の薫陶に誠実に応える、というような意味で使われていました。
師を、神様に置き換えたらどうでしょう。
私たちシスターは、貞潔、清貧、従順という三つのことを神様に約束しますが、この三番目の従順は、単なる盲従でも絶対服従でもなく、良質な従順でなければならない、と思いました。
神の子としての完全な自由の内にあって、父である神様のお考えやご計画を自分の腹に落ちたものとしていく、と言ったらいいでしょうか。
そこに至るには葛藤、つまり「はい」と答えて行動しない私と、「いいえ」と答えながら行動する私とのせめぎ合いがあります。
個人の中にあるこの葛藤を、イエス様は深い人間理解で赦してくださると、私は思います。
イエス様ご自身でさえ、父である神様のご計画である十字架上の死を受け入れるのに、血の汗を流した、と書かれているのですから。 (Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ マタイ21:28-32
そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」