『ニルスのふしぎな旅』の原作者として有名なセルマ・ラーゲルレーヴの短編に『ともしび』というタイトルのものがあります。
フィレンツェきっての乱暴者で鼻もちならないうぬぼれ屋のラニエーロが、彼の性行に腹を立てて実家に帰ってしまった恋女房フランチェスカの愛を取り戻すために十字軍に加わります。武功さえ立てれば、きっとフランチェスカが再び自分を愛してくれるようになるだろうと。実際、ラニエーロは手柄を立て、褒美としてイエス様のお墓に灯されている「火」を、故郷に持ち帰る権利を得ます。
さてそれからが大変。中東のエルサレムから中部イタリアのフィレンツェまで、彼は後ろ向きに馬にまたがり、マントを風よけにしてそろりそろりと道を行きました。途中で山賊に遭っても無抵抗。「きちがい」(差別用語で申し訳ありません。岩波文庫からの引用です)とあざけらても無抵抗。逆に人の親切や思い遣りもたくさん受けました。こうしてフィレンツェに帰り着いた時、彼の心はすっかり変えられていました。
ところが、フィレンツェの誰もが、その火がエルサレムからのものだとは認めてくれません。ラニエーロはがっくりきてしまいました。その時、一羽の小鳥が飛んできて彼のもちかえった火をかすめて消し、自分は火だるまになりながら大聖堂の奥にある聖母マリアの祭壇まで飛んで息絶えました。ラニエーロは走っていってその小鳥から火をとり、マリア様のろうそくに火をともしたのです。「神様が証してくださった」と司教様が叫びました。
それからのラニエーロとフランチェスカが、いかに信仰深くつつましく人に親切を尽くして暮らしたか、書かなくてもお分かりでしょう。彼は、神様のために「きちがい(イタリア語でPazzo)」と呼ばれたことを名誉とし、これを「家名」としました。後にこのパッツィ家は大銀行家となり、メディチ家を倒す陰謀をめぐらすことになるのですが、それは400~500年後のことです。
電気のない時代、「火」を絶やさないようにすることは大変なことでした。日本にも「油断大敵」の言葉があるとおり、油、ろうそく、松明を切らさないようにすることが、まずは火を絶やさないことでした。ラニエーロも旅の途中、いつもろうそくを工面するのに苦労しています。今回の福音の言いたいことは「目を覚ましていなさい」ですが、どのおとめも眠ってしまったというのですから、イエス様のおっしゃりたいことは、「その時のために準備を怠らないこと」と翻訳できるでしょう。
何を準備するか。ラニエーロを見習いましょう。「彼は傷ついた葦を折ることなく、くすぶる灯心を消さない」。(イザヤ42:3)自分を捨てて、社会の中の弱い人たちを大切にしたイエス様の姿を、ともしびを守ることで見習ったラニエーロを、私たちも見習えばよいのです。
よりもうすぐ待降節、そしてクリスマスです。街に流れているクリスマス・キャロルを聞くとつい教師の時の習性で焦ってしまう(クリスマス式典と学期末の事務的作業が重なるので)のですが、コマーシャリズムよりも怠りなく、自分自身の準備を、静かに、でも着実に進めていきたいものです。(Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ マタイ25:1-13
(そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。)「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」