4/28 若い人のための日曜日の聖書 復活節第五主日 ヨハネ15:1-8

毎年、裏庭のまた裏の方にひっそりと咲くスズランです

だれかと手をつないだのは、いつだったでしょう。

中米で宣教していた時、特に小さいグループの集まりや若い人たちの集まりに行くと、よく、始めの祈りや終わりの祈りの時に輪になって手をつないで、「主の祈り」や「アヴェ・マリアの祈り」を唱えました。その時のつないだ手のぬくもりを懐かしく思い出しました。

手をつないだ親子連れや恋人同士を街で見かけるのも、心あたたまることです。

なぜこんなことを思い出したのかというと、今回の福音箇所で、イエス様が「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」とおっしゃってくださったからです。

色々なことがうまくいかないとき、ついつい、神様が遠く感じられがちですが、その時こそイエス様の手が私の手をしっかりとつかんでくださっていることを思い出したいです。

イエス様の手のぬくもり、そのぬくもりで私を包んでくださっていることを、祈りの中で深く体験させてください。あなたの手だけが、私の慰めであり、私の憩いです。

 

≪聖書箇所≫ ヨハネ15:1-8

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」