はじめて中学生の担任になった時の緊張感は、何十年もたった今も忘れられません。
副担任を3年して、4年目に中1の担任になったのですが、入学式からの1カ月は本当に大変で、何をするにも「先生、どこに行ったらいいのですか」「先生、これはどうするのですか」という質問攻め。
こちらの指示の仕方が悪いととんでもないことになります。
小学校1年生の担任や幼稚園の担任はもっともっと大変なのだろうと思います。
しかし、あたふたしているうちに気付いたのは、クラスとは何と担任に似てくるものか、ということでした。
以前から他の先生方のクラスを見て、クラスが担任に似ることは知っていましたが、こと「自分のクラス」となると話は別です。
生徒たちがそれだけ私を意識して行動しているということですから、自分に似てきたクラスは可愛くもあり、同時に怖くもありました。
今回の福音箇所で、イエス様はご自分を羊飼いに、私たちを羊にたとえています。
イエス様は私たち一人ひとりを名前で呼んでくださるのですから、その声を聞き分け、その声にのみ従う羊でありたいです。
他の声、つまり世の中の価値観とか、自己中の自分の独りよがりの考えでなく、私たちに豊かに命を下さるイエス様の声に従う羊。
フランシスコ教皇が、司祭たちに向かって「羊の匂いのする羊飼いになりなさい」とおっしゃったことを以前書きましたが、私たちも羊飼いの匂いのする羊になりたいものです。
写真は、4月30日に行われたサレジオ会の谷口亮平神父様の叙階式のご絵(何かの記念に印刷する聖画の入ったカード)です。この日の画像を何にしようかと迷っている時にいただきました。神に感謝! (Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ ヨハネ10・1-10
「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」。