2018年1/21 若い人のための日曜日の聖書  年間第三主日  マルコ1:14-20

ラヴェンナのモザイク

今はどうか分かりませんが、明治学園でも、桜の聖母学院でも、以前は高校の宗教の授業にマルコ福音書の1年間かけての通読が入っていました。これが・・・大変でした。なんといっても、授業をする私自身が「マルコの出だしは他の福音書のそれに比べて面白くないなあ」と思っている。そして生徒たちは、特に明治学園では、高校生の半数がすでに9年間、残りの半数は3年間「宗教の授業」を受けてきていて、いい加減飽きている。おまけに反抗期の真っ盛りです。

彼らいわく「イエスは威張っている。なんだって、いつも命令口調なんだ」。なるほど、今回の箇所にしても、「信じなさい」「ついて来なさい」等、命令口調ですし、命じていることそのものが彼らの常識からしたら荒唐無稽です。

さて、フランス語、イタリア語、スペイン語など、ラテン語から枝分かれしていった言語では、英語のyouにあたる二人称単数が二種類あり、相手との親しさによって使い分けます。私が大学時代お世話になったフランス語の先生は「一夜明けると、vous(あなた、あなた様)がtu(君、お前)になる」と、授業中の説明としてはちょっときわどい発言で、この使い分けを教えてくれました。

それで、神様に対してはどちらを使うかというと、親しい人や小さな子どもや犬(!)に使う、フランス語ならばtuの方なのです。もちろん神様も私たちにtuを使って話かけてくださいます。これはイタリア語のtuでもスペイン語のtúでも同じ。日本語の聖書はしばしばイエス様や神様に敬語を使っていますが、これは儒教の影響かもしれませんね。さて、人称の種類が多い、という特色をもつ日本語訳の場合、若い人にも中高年にも、広く納得できる人称を選ぶというのは難しいことです。命令形にするのか、もう少しやわらかなお願いの形にするのかという動詞の問題も同じ。それにしても、訳語に引っかかってイエス様その方そのものに近づけないのは悲しいです。

イエスの最初の弟子たち、シモンとアンデレ、そしてヤコブとヨハネは、イエス様からの一言で、考えられないほど簡単に全てを捨ててしまいます。イエス様の呼びかけには、それほど大きい魅力があったのでしょうし、単純な彼らは、その呼びかけを単純に受け取る、という、現代の私たちには想像できない「能力」があったのでしょう。主よ、彼らの単純さを、私にもください。「水辺に舟を捨てて、みことばで漁に出よう」という聖歌の一節のように。 (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ マルコ1:14-20

ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

『セイントお兄さん』より