巡礼初心者長崎へ行く その5

前日の歩き疲れで、6時に起きられるだろうかと多少の不安はあったが、何とか目覚まし時計の音に反応し、必死に体を起こした。しかし、バスの出発時間までを逆算すると、朝食をとるのはとても無理だと判断し、ヨーグルトだけを急いで食べ、残りはリュックに詰め込むことにした。分単位の戦いで、ホテルのフロントに荷物を預け、走ってバスターミナルへ。何度もバスの時刻表と行先を確認しているところにバスが到着し、なんとか乗り継ぎ地点まで行けそうだ。早朝一番バスは、直通で「出津文化村」まで行けないため、途中「桜の里ターミナル」で乗り換えることになる。40分ほどで到着した終点の狭い待合室には、地元の高校生たちが、慣れた様子で乗り換えバスを待っている。私はといえば、乗り換え時間を有効に使い、ベンチで朝食の残りを味わって食べている。小さいターミナルの割には、いろいろな行き先があるのだろうか。一台のバスが到着し、一人しか乗り込まないので迷ったが、もしやと思いドアが閉まる寸前に「すみません、出津文化村に行きますか?」と聞くと、「行きますよ」との返事、間一髪で無事乗車することができた。ここからは、まるで兄弟のような快晴の空と紺碧の海が、私の巡礼の同伴者になってくれた。一昨日までは、考えてもいなかった「出津」への旅で、何に出会えるのだろうかと、私の心は躍っていた。

1873年明治政府は、262年に及ぶ禁教令をついに解いた。その5年前に、一人のフランス人神父が長崎に渡来し、1879年長崎外海地区出津教会主任司祭となった。彼こそが、「ド・ロ様そうめん」でよく知られるマルク・マリー・ド・ロ(Marc Marie de Rotz)神父である。外海に赴任した彼が最初に目にしたのは、貧しさの極みにある人々の生活だった。出津は、大村藩の城下から遠いことや佐賀藩の飛び地が混ざっていたという理由から、潜伏キリシタンとして生き延びることが可能になった。しかし、人里離れた陸の孤島のような土地だったことも間違いない。1882年赴任直後、ド・ロ神父が最初に手掛けたのが、出津教会の建設だった。台風が直撃するこの地域の特性と貧しい民衆が将来修繕費を捻出しなくて済むようにと、丈夫さと質素さを基調にした神父様の温かい心のこもった教会である。もちろん当時の信徒たちも、自分たちの祈りの場のために、喜んで奉仕して完成させたものだ。小高い丘の上に立つ白い教会は、今も眼下に出津の人々の暮らしを見守るド・ロ神父様の眼差しのような存在に見える。扉が閉っているのでどうしようかと思っていると、坂を下ってこられるシスターの姿が目に入り、あとを追いかけて声をかけた。ご親切に戻って教会のカギを開けてくださるその小さな姿に、この地の信仰をずっと支えてこられた信念のような美しさを感じた。入口の前で靴を脱ぎ、当時のままの重い木製扉を開くと、135年間のキリシタンの祈りが染みわたった聖堂が現れた。祭壇には、歴史を感じさせる聖画が置かれ、あたりの空気からは、人々の生活の香りがしてくるような気がした。静寂の中でしばらく祈り、教会を後にして棚田の細い道を降りながら、井戸のわきに小さなマリア様のご像が置かれているのが見えた。旅先で、今まで目にした棚田の中で一番小さな棚田さえ、出津の人々にとっては、命をつなぐ貴重な食糧源だったに違いない。そのために、マリア様に収穫の取次を願っていたのだろうか。労働の時も道を歩く時も、生活のすべてが神に守られ、神と共にあった信仰深い、しかし貧しさから抜け出せなかったこの地の人々にとって、ド・ロ神父様はどんな存在だったのだろうか。

私はこれまで、「ド・ロ様そうめん」以外に神父様の功績を全く知らず、申し訳ないことに興味さえ持っていなかった。しかし、この地を踏むと、何やらとんでもなく素晴らしい方だったのではないか、という思いがしてきた。丘から前方に見える道路と海に目を向けると、かつては、「追手」さえも気づかない陸の孤島であったことがなんとなくわかる。さあ、ド・ロ神父様を見つけに行こう!     (Sr.高橋香久子)