巡礼初心者長崎へ行く その6(完結編)

 教会から細い坂を降る途中には、珍しい壁が続いている。これは、ド・ロ神父様考案の「ド・ロ壁」というものだ。赤土を水に溶かし石灰と砂をこね合わせたものを接合剤にして、地元の自然石を積み重ねていくと、雨に打たれても丈夫な壁となる。「出津救助院」一帯の建物や壁のあらゆる所にこの技術が生かされ、百年以上たった今も当時のまま保存できている要因にもなっている。坂下に最初に現れた建物は、「ド・ロ神父記念館」。そっと中をのぞくと、「どうぞ」と一人のシスターが迎えてくださった。巡礼中であること、初めて外海を訪れたことなどを話しながら、他に見学者がいなかったことも幸いし、内部の見学前に、ド・ロ神父様の功績についてたくさんのことを聞かせていただいた。前回も記したが、ド・ロ神父様が最初に赴任した時に目にしたのは、この地の貧しさだった。このままでいいはずはないと思った神父様は、「人々を貧しさから救う方法」を実践していった。まず着手したのは、働く場を作ること。そこに必要な道具を置き、仕事を教え、自立できる力を身に付けさせる。その要となったのは若い娘たちであり、パン、そうめん、お茶、マカロニを生産した。長崎という地の利も幸いし、生産品は、市内居留地の外国人たちに人気を博した。これは、ただ出津の人々の生活を貧しさから救っただけでなく、若い女性たちに、自立の力と希望のうちに信仰をより深めていく体験をさせることになった。驚くことに明治のこの時代、女性の衣服は着物が主流だったにもかかわらず、救助院で働く若い女性たちは、自ら縫製した揃いの洋服を身に着けていたのだ。私の想像の中の当時の貧しい女性たちは、映画『ああ、野麦峠』に登場する、ぼろで擦り切れたような着物を着て作業する娘たちだ。作業衣が洋服、というだけでも若い女性にとっては、オシャレで何かウキウキするような気分になるのではないだろうか。シスターの説明と案内で記念館の中を回っていくと、その技術や道具の種類に、改めてド・ロ神父様が頭脳明晰な方であることが分かる。印刷、土木建築、医療、染色縫製、漁業、農業、食品製造等、生活面に関するすべてといっていいほど多岐にわたっての技術を持ち合わせている。またその道具は、母国フランスやヨーロッパ諸国から取り寄せたものと、ご自分で独自に作られたものの両方がある。まさしく当時ここは、知られざる文明の最先端を行く村だったのだ。シスターからお聞きした話の中で、一番感銘を受けたのは、ド・ロ神父様のお母さまの話だった。彼は、フランス、ヴォスロール村の裕福な家庭に生まれた。当時の感覚なら、裕福=生活のこまごましたことは誰かがするのが当たり前、だったと思うが、彼の母親は、子どもたちにあらゆる生活技術を身に付けさせ、どんな状況にあっても生きていかれるように育てたようだ。私も母から多くのことを学んだと思っているが、ここまでとなるともう次元が違う。さらに実家の財産のほとんどを、母国から遠く離れた宣教地出津の人々の自立のために使ったようだ。確かに、ヨーロッパで機械や道具を購入し、それを船で運ぶとなれば、相当の費用がかかるはずである。「出津救助院」は、神父様の実家の財産に支えられて可能になった、といっても過言ではない。神父様が実践した「人々を貧しさから救う方法」とは、次の三つではないだろうか。経済的援助、仕事、そして人間教育。神父様は、女性たちが安心して働けるようにと、保育所まで設置している。

帰りのバスの時間まであと40分ほどしかないが、もう一か所、実際に女性たちが働いていた授産場を見ることにした。ここにも物腰の柔らかいシスターがいらして、当時の様子を丁寧に説明してくださった。授産場の一階では、綿織物の一連の作業、染色、そうめんやパンの製造、醤油の醸造と多岐にわたる作業が行われていた。当時の面影は、天井の梁や柱、床下部分にだけ残っているが、説明をお聞きしているうちに、若い娘たちが忙しそうに働いている様子が、走馬灯のように浮かんできた。時間がないので急いで2階に上がると、そこは木に囲まれた温かさのある祈りの部屋だった。左手前方には、ド・ロ神父様が、母国フランスから取り寄せた珍しいオルガンが…。古い味わいに、目が釘付けになっていると、シスターが、「今も弾けますよ。」とおっしゃるやいなや椅子に座り、弾き始められた。オルガンの響きも素敵だけれど、シスターのおもてなしの心にも圧倒された。この地にド・ロ神父様が残されたものは、女性の自立と素晴らしき宣教精神!ここで「お告げのマリア修道会」が始まり、ここから多くの聖職者が誕生していったことも不思議ではない。

バスの時間まであと5分ほど。十分なお礼を言えたのかどうかわからないが、「旧出津救助院」を後にして、バス停に急いだ。日陰のないバス停は、陽ざしがまぶしいが、ド・ロ神父様が愛した出津の空気をしっかり吸って帰ろう。ほぼ時間通りに来たバスの中から、外海の景色を味わっていると、小学1~2年生の男の子に、「このバスは○○に行きますか?」と聞かれ、バスの停車を待ち、彼の代わりにドライバーに同じ質問をし、○○に止まることを確認して彼に伝えた。そのほっとした顔を見た時に、心から良かったと思った。ド・ロ神父様も、出津の人々の感謝に満ちた顔に支えられていたのかもしれない。

蛇足だが、年表を見ていてあっと息をのんでしまった。ド・ロ神父様が帰天された日と私の誕生日が、奇しくも同日だったのだ。こんな素晴らしい方と一緒でいいのでしょうか?

 

わずか一泊二日の長崎巡礼の旅だったが、寸暇を惜しんで回っただけあり、たくさんの恵みをいただいた。行く先々で信仰について考えさせられ、過ぎ去った日々を思い出し、いただいた信仰の恵みを感謝する時にもなった。そしてまた長崎の人々の信仰は、今なお日本の教会を感化し続けているように感じた。 (Sr.高橋香久子)