2018年3/4 若い人のための日曜日の聖書  四旬節第三主日 ヨハネ2:13-25 

エル・グレコの『神殿から商人を追い出すイエス』

昔、『寺内貫太郎一家』というTVドラマがあり。小林亜星が演じるお父さんが、ちゃぶ台をひっくり返すシーンが有名でした。TVアニメの『巨人の星』にも同じようなシーンがあるとか。どちらも、実際に見たことがなかったので、この原稿を書くにあたって動画で確認しました。話の展開に必要なシーンだったのでしょうが、食べる物の載った食卓をひっくり返す、というのは傍若無人の感を免れえません。

今回の福音書のシーンは、食卓ではないけれど、イエス様が「だれかが大切にしていた場」を意図的に壊してしまうシーンです。祭が近づいてにぎわっている神殿の境内、だれもが興奮していたに違いない雰囲気を、イエス様が壊すのです。そこには、イエス様の強い信念があります。「私の父の家を、商売の場とするな」。祈りの家に、物の売り買いはふさわしくない、ということでしょうか。

境内に人が集まる。だからそこに取引が生じる。これは、人間の自然な営みです。子どもの頃、「お縁日」というと、屋台で何かを買ってもらえるのが楽しみでした。ヨーロッパの古い町に行くと、「市」が立つのはしばしばカテドラル(その町の一番大きい教会)がある広場です。これはさすがに、日曜日ではなかったです。でも、たとえば復活祭の一週間前の受難の主日(以前は枝の主日と呼ばれていました)には、イタリアでは、教会の前で行列に用いるオリーブの枝を売っていました。日本では、ソテツの枝を使い、教会が購入してみなに配りますので、最初は売っていることにびっくりしました。縁日も、市も、オリーブ売りも、宗教祭儀で人が集まることを見込んだ商売です。

イエス様はどのような気持ちでこの商売人たちを追い払ったのでしょう。きっと、とてもせつなかったに違いありません。とりわけ、社会の仕組みも人の心もよく知っていらっしゃる方でしたから。それでも、祈りを食いものにするな、とおっしゃっているのでしょう。そのイエス様の姿を見て、いつもは忘れっぽくてイエス様に叱られてばかりいる弟子たちが珍しく、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と詩編(69:10)に書いてあるのを思い出したました。

私は、シスターであることで荒稼ぎをしているわけではないけれど、シスターであったから学校で働けたことも確かです。だいたい、桜の聖母学院や明治学園の採用試験を受けて受かったでしょうか。一方で、シスターであろうとなかろうと、働いて糧を得ることを聖書が禁じているわけでもありません。

ただ私たちの体は神様の宿る「神殿」(Iコリント3:16)なのですから、シスターであることを商売とせず、謙虚に生きていきたいなあと思います。方向違いの「熱意」をもったり、おかしな特権意識をもったり、特別扱いされて当然と思ったりするのでなく。その意味では、今、カトリック学校を離れ、「雅代先生」や「シスター斉藤」でなく、だたの「斉藤さん」として働けるのはありがたいことだと思っています。  (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ ヨハネ2:13-25

ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。