巡礼初心者江戸を行く その3

さて、キリシタン屋敷跡での祈りを終わった私たちは、2014年、このすぐそばのマンション建設の際、土地を掘り起こして見つかったというシドッチ神父様の墓地?に祈りの場を移そうとしていた。地図上では、ほんの数十メートル先のはずなのに、5人であちこち探しても見当たらない。途方に暮れて諦めかける心とここまで来たのに…という心とのせめぎ合いで、どうしようかと考えていた。地元の人ならわかるはずと思い、数人の方に声をかけてみたが、「誰のことですか?」「分かりませんね。」との返事。これで最後にしようと、小学生のマラソン大会のお世話をしていたお父様に尋ねると「この坂の新しいマンションの所ですよ」という自信のある応えが返ってきた。皆に声をかけ、もと来た坂を、あちこち目を凝らしながら降りていくが、結局、誰も何も見つけられないままに坂下に来てしまった。5分前よりもっとがっかり感が大きく、皆の顔から正気が失われていくのが分かった。すると、地図解読担当の一人の方が、スマホで何やら一生懸命検索し、見せてくださった画面には、茶色い建物が映し出されていた。「この建物が何か関係あるみたいで…」と呟きながら、しばらく経つと、「シスター、あの2階の窓にマリア様のステンドグラスがありますよ!普通の家じゃないでしょう」。すると、もう一人の地図解読担当の青年が、門の中の壁に、「シドッチ…」という小さなレリーフを見つけた。私の後ろから「インターホンを押してみたら」という誰かの声が聞こえたのと同時に、手が動いた。「すみません、カトリック教会の者ですが、シドッチ神父様のことについてお伺いできますか?」「はい、お待ちください」。皆、やった!という思いで顔を見合わせた。ところが、待つこと5分。その間に来たアマゾンの配達の方も、何故か私たちと一緒に待たされることになってしまった。「きっと片付けか何かをしてるんでしょ」「私たちのためにお茶とか…」と、勝手な憶測が飛び交った。やがて扉が開くと、そこには優しそうな女性が現れ、笑顔で私たちを中に招き入れてくださった。一歩足を踏み入れると、誰もが「あっ…」と息をのんだ。小さな聖堂のように整えられ、外国から送られてきたという膝まずき台のあるバンク2台、正面にはマリア様と聖人たちの絵画が並べられ、壁には、日本におけるキリシタン史を手書きで書いた模造紙が貼ってあった。後方を見上げると、先ほど外から見たマリア様のステンドグラスが、光に照らされて輝いている。沢田和夫神父様と館長様のご両親、宣教師の方々のご尽力で、この資料館が今あることを教えていただいた。そして、私たちの立っているところの下が、かつてのキリシタン屋敷牢であり、シドッチ神父様が閉じ込められていた記念すべき場所であることも分かった。年表の説明や沢田神父様との思い出をうかがった後、『殉教者シドッティ』(ドン・ボスコ社)の本までいただいてしまった。今は、留学生の女子寮とこの資料館を運営なさるお忙しい身でありながら、私たちのために、細部にわたっての説明までしてくださり感謝。2階にも資料があるということだったが、この先もまだ巡礼が続くことをお話しし、皆で「主の祈り」を唱えて玄関を後にした。近所には、キリシタン屋敷にあった井戸を、当時のまま保管してくださっているお宅があるそうだ。宗教を問わず、貴重な歴史的遺産を守ってくださる方の心にも感謝。

これほど、私たちが必死になって探していたシドッチ神父様は、キリシタン屋敷最後の住人だった。時は五代将軍綱吉の治世。天下統一が人々を戦国時代から解放し、キリシタン弾圧も落ち着きを見せ、この屋敷に新たな収監者もなく、時は過ぎていった。ところが、1708年ローマ教皇の命を受けて、未だ禁制下の日本に、一人のイタリア人神父が潜入してきた。ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッチ神父である。4年間マニラで、日本への思いを温めていた神父は、和服に日本刀の姿で、屋久島に上陸したが、片言の日本語とその風貌で、すぐに捕らえられてしまった。時を同じくして、徳川幕府も綱吉の死によって、六代将軍家宣の後継が決まるというごたごたの時であったため、シドッチ神父は、1年近く長崎に留め置かれ、その後、狭い牢輿で江戸に護送された。体の大きな神父にとっては、これこそが拷問状態で、江戸に到着してからも、しばらくは一人で歩くことさえできなくなっていた。彼はすぐにキリシタン屋敷に収容され、かつてキアラ神父の世話をしていた長介、はる夫妻が再び神父の面倒をみることになった。間もなく、新将軍家宣の命を受けた学者、新井白石の取り調べ尋問が始まり、後に白石を驚嘆させるシドッチの学識と人間性が浮かび上がってくるのである。この時、白石がシドッチ神父から聞き取った西洋の知識やキリスト教の教えが、後に『西洋紀聞』としてまとめられた。白石は、シドッチ神父を母国に還したいと望んでいたが、幕府は、彼をキリシタン屋敷に留めることに決定した。こうして、シドッチ神父は、キリシタン屋敷最後の住人となったのである。しかし、その処遇は、かつてのキリシタンたちとは違い、拷問を受けることもなく、時には見張り付きで屋敷の外に散策に出かけることも許されていたようである。ところが4年後の1714年、とんでもないことが屋敷内で起きた。神父の世話をしていた長介とはる夫妻が、シドッチ神父から洗礼を受けたと告白したのだ。これによって、夫婦は別々の獄舎に、神父は、狭く暗い地下牢に移されることになり、間もなく3人は次々に病死し、密かに屋敷内に埋葬されたようである。

私たちは、時として歴史上の驚きの奇跡を知ることがあるが、2014年に、文京区小日向‘キリシタン屋敷跡’から偶然発見された3人の遺骨もその例にもれないであろう。DNA鑑定の結果、その一つがシドッチ神父であることが確認され、現代科学を駆使して複顔も行われた。奇しくも亡くなってから、ちょうど三百年の時を経て、再びこの世界に現れてくださったのだ。彼が、はるか遠い異国から、わずかな荷の中に選んで所持した聖母像絵画『親指のマリア』は、日本の重要文化財として大切に保管されている。私たちが、やっと見つけたあのシドッチ資料館2階のステンドグラスも、この『親指のマリア』を模したものだ。            (Sr.高橋香久子)