7/29 若い人のための日曜日の聖書  年間第17主日 ヨハネ6:1-15

あなたはケチですか? それとも気前のいいひとですか?

私の身近にいるシスターで、とても気前のよい人がいます。以前一緒に学校で働いている時には、いつも大きなバッグを持っていて、そこに何でも入っていました。

「指を切っちゃった」と言えば「バンドエイド上げましょうか」。

「お腹がすいた」とつぶやけば、「あめがあるわよ」。

まるでドラえもんのポケットのように、なんでも入っているバッグでした。

その上に、お料理が趣味、というか彼女にとってはお料理がストレス解消の「スポーツ」のようなもの。いつもいっぱい作っては、周りの人にふるまっています。しかもただふるまうのでなく、その根底に「おいしものを食べさせてねぎらってあげたい」とか「元気づけてあげたい」という気持ちがあり、それが相手に食べ物とともに伝わるのです。決して見返りを望んでいるわけではないのですが、結果として自然と食べ物のお返しが集まってきます。それは、単に「食べもの」に対する「もの」にとどまらず、信頼であったり、愛情であったり。「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる」(ルカ6:38)という聖句をまさに地で生きている人。

さて、先週から今週は、福音書がマルコからヨハネへと変わりますが、同じ話の続きです。どこまでも追ってくる大群衆を「かわいそうだなあ」と思われたイエス様は、まず彼らの頭と心に語りかけます。でも、イエス様の「あわれみ」は、それだけに留まりません。「こんな人里離れたところまで来て、お腹もすいていることだろう。到底、このまま解散するわけにはいかない」。

と同時に、イエス様はこの危機を、弟子たちを教育する機会ともします。

「ねえ、君ならどうする?」と語りかけられたフィリポは、困ってしまいます。

「俺たちの一年分の給料があったって足りませんよ」。

アンデレの反応はちょっと違いました。

「俺のじゃないけれど、あの子、パン五つと魚二匹とを持っている。でも、絶対足りないよね」。

イエス様は、きっとこの二人をにこにこと見つめていらしたことでしょう。

「私が神の子であることを忘れているね」。

こうして、奇跡がおこったのです。

「あわれみからくる気前の良さ」-それは、人間が心だけでなく体をもった存在であるということをよく知った上で救いをもったらそうとする神様の特徴です。この神様の特徴を、「神の子たち」の一人である私たちは遺伝子のように受け継いでいるのです。あとは、この遺伝子がよく働くよう、神様が私に対してどんなに気前が良かったかを思い起こし、恵みの世界に飛び込むだけですね。あのシスターを見習って。

さて、今回のエッセイをこんな風に書き始めるために、ネットで私自身のケチ度(つまり、気前の良さの対極)を診断してみようと思いました。

いくつかの質問に答えた後、出てきた答えは…

「あなたはお金についてはとても理性的な判断をする人。無駄な出費はせず、自分にとって一番効果的なお金の使い方ができる人です。ただし、自分が納得したものについては金額の糸目をつけないので「お金を貯める」という点から見るともう少し絞り込みが必要。しかし総じて、お金の問題で悩むことがない、しっかり者のタイプです」

きゃーっ、よく当たり過ぎて怖いです!   (斉藤雅代)

≪聖書箇所≫ ヨハネ 6:1-15  

(そのとき、)イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。