「うちの子は医学部に行かせたいんです。教師じゃ食えませんから」。
以前教えていた学校で保護者と面談していて、その生徒が小学校の先生になりたがっていること、よい教師になれる素質をもっていることをお伝えした時に言われた言葉です。教師である私を目の前にしてよく言えたものだ、と思いました。しかも、その保護者の方自身が卒業生でしたから、私はがっかりしてしまいました。親として、それなりのお考えがあったのでしょうが。
医師も教師も立派な職業です。いえ、立派でない職業なんてないと私は考えています。このところ修道院が建築中のために、私の携帯の「連絡先」に増える方は、ほとんどがブルーカラーの方です。みなさん、この酷暑の中、汗を流して私たちのために働いてくださっています。少しも大変そうでなく、むしろ誇りをもって真剣に取り組む姿が光っています。
私は何のために働いているのかしら?
この方々の姿と今回の福音箇所に触発されてまず自分に質問してみました。
「楽しいから」というのが、私の中の第一の答え。働くことによって、他者や社会と繋がったり、何かが変わったり出来あがったりする―私はそのことが単純に楽しいです。もちろん、働けば疲れますし、動きがあることによって、動かない時より誰かとぶつかったりもしますが。
第二に、わずであっても現金収入があれば、修道院の会計を助けることになります。
このように自問自答してみて、私という人間の本性の中に、「労働」あるいは生命維持のための一種の採食行動でしょうか、があることを認めました。
イエス様は、このような本性を一段上に引き上げてくださいます。
パンの奇跡に感動した群衆に向かってイエス様はおっしゃいます。
「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」、そして「私がその命に至るパンだよ」と。
神の子である方が、私たちが口に入れて噛み砕くものになってくださったのです。しかも、ただ生命体を維持する食べ物であるだけでなく、永遠の命へと導いてくれる「食べ物」です。私たちの労働の目的、さらにすべての営みの目的はこのパンの採食行動であるべきなのでしょう。悲しいことは、私たちがもっと短絡的に労働をとらえ、食べるための方策としか見ていないことです。
最初にご紹介した生徒はやがて医学部に進みました。彼女自身の決断であればよいと思いますが、そのころ私は日本にいなかったので、知るすべがありません。
≪聖書箇所≫ ヨハネ 6:24-35
(五千人がパンを食べた翌日、その場所に集まった) 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」