あなたは「つぶやく」ことの多い人ですか? それとも少ない人ですか?
いえ、Twitterの話ではありません。
「つぶやく」と言えば今やTwitterの用語のようですが、聖書の中の「つぶやく」は「ぶつぶつ不平不満を言うこと」の意味で使われています。そして、イエス様の一挙手一投足に聖書的な意味でつぶやく人が多かったようです。
つぶやく人とつぶやかない人-その差はどこにあるのでしょう。
以前から不思議だとも不公平だともおもっていたのは、ルカ福音書のお告げの場面です。
天使のお告げをうけて「私も妻も子どもを授かるには年を取りすぎています」と言ったザカリアは、しばらく口がきけなくなってしまいますが、「どうしてそのようなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに」と答えたマリアは、なんの咎も受けませんでした。
もしかしたら、ザカリアはつぶやき、マリアはストレートに神様に疑問を投げかけたのかもしれません。つぶやき以前の心の方向性を神様がご存知だったのかもしれません。また、ザカリアを守るうえで、彼が一時的にコミュニケーション能力を失う必要があったのかもしれません。
いずれにせよ、つぶやく人は現状や現象のみを見て、じぶんの判断に頼っている。つぶやかない人は、その奥にある神様の意向を知ろうとする。
もちろん、後者であっても、「わたしは天から降って来たパンである」という言葉の意味を理解するには時間と恵みが必要であったろうと思います。しかも今回の福音箇所では、「イエス様=パン」という話が最後のところで、「イエス様=イエス様ご自身であるパンを与える方」と変化していきます。難しいですね、このあたりは。
イエス様、始終つぶやいてばかりいる私を赦し、あなたの意向を知ろうとする者にしてください。少なくとも、つぶやいてしまった後に、あなたの意向を探し求める者にしてください。そして、よくは分からないのですが、私にも「永遠の命」をください。 (斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ ヨハネ 6:41-51
(そのとき、)ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」