9/23 若い人のための日曜日の聖書  年間第25主日 マルコ 9:30-37

主聖堂屋上の十字架

私は、大学院から直行で修道会に入会したので、それ以前の社会経験がありません。そして、誓願を立ててからの「社会経験」といったらほぼ学校だけ。学校というのは割合フラットな社会ですから、校長や学長以外は一並びという感じで、もちろん役職はあっても「教頭」とか「学年主任」を呼び名にすることはあまりありません。むしろ姓に「先生」をつけて、新任の先生から校長・学長まで呼び合うというのが普通でした。

もちろん修道院の中も互いに「シスター」と呼び合い、役職名はほとんど使いません。

ここにきて、その修道院の生活に建築関係の方々ががっちりと入ってきました。彼らは互いを完全に役職名だけで読んでいます。所長、次長、課長…私にはだれが一番偉いのやら、あまり区別がつきません。ただ分かっているのは、役職のない一番若い人のみ「〇〇君」と呼ばれていること。

そして彼らは、この文化を私たちにも当てはめます。私は「院長」と呼ばれ、シスターEは「管区長」と呼ばれます。「シスターと呼ばれる方が好きだなあ」と思いながら、彼らの文化に染まって3か月。

これは恐ろしいことだ、と私の中の何かが叫びます。

何となく、「長」が付くと偉くなったような錯覚に陥ります。そしてそれは、福音書の中でイエス様が提示し、自ら実践された生き方とはまったく違っているということ。

イエス様がご自分の受難を死について語り始めていらっしゃるのに、弟子たちの興味関心は「だれが一番偉いか」。それでもさすがに「何を喧嘩していたの?」というイエス様の問いにみなは黙りこんでしまいます。すでにイエス様の考え方を知っている証拠です。我慢強いイエス様は、このような十二人に「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」とおっしゃったのです。

すべての人に仕える者」…この言葉が、私の胸に突き刺さりました。

サーヴァント・リーダーシップ、支援型リーダーシップ(人に奉仕した上で指導していく)を提唱したグリーンリーフは、信仰あついキリスト者でした。このリーダーシップの形はだいぶ前から知っていましたが、いざとなると実践はなかなか困難です。その対局にある「支配型リーダーシップ」の方がとりあえず簡単でスピーディーだからです。しかし、あくまでも「とりあえず」です。人間はもともと神様から自由をいただいているのですから、支配だけでは物事が進んでいきません。

「院長」と呼ばれるたびに、サーヴァントであること、まずは神様に仕える婢であって、姉妹たちの奴婢であることを意識しよう、とあらためて思わされました。「私は主の婢」とおっしゃったマリア様、どうぞ私も婢に徹することができるよう、助けてください。

≪聖書箇所≫ マルコ 9:30-37

(そのとき、イエスと弟子たちは)ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」