4/7 若い人のための日曜日の聖書  四旬節第5主日 ヨハネ 8:1-11

無心に咲く修道院の桜

同棲、と聞くとなんとなく暗い(後ろ暗い?!)イメージを抱くのは、私がまもなく2つ前の年号になる昭和半ばの生まれで、すでに十分「古い人間」である証拠かもしれません。

私がかつて中学・高校で教えた生徒たちの現在の年齢は2040歳。

彼らの話をきく機会があると、結婚とその周辺の在り方が大きく変わっていることを感じさせられます。付き合って結婚ではなく、付き合って、同棲してから結婚(あるいは入籍)という人のなんと多いこと。しかも両親(もちろん私より若い)がそれをよしとしているところなど、時代の変化を感じさせられます。

まあ、あまり「驚いた感」を出さずに話を聞くようにしていますが。

そして同棲や婚前旅行が当たり前になっている一方で、恋愛に対して積極的でない「草食系」が「誉め言葉」になっているという現象も不思議に感じます。

恋愛は自然なことだし、恋愛ほど人の感情や感性を育ててくれるものはない、という考えも、私が古い人間だからでしょうか。

若い人たちにとって、性的モラルがはっきりしている上に離婚を認めていないカトリック教会の教えはどのように映るのだろうと思ってしまいます。

ともかく、イエス様はいつだって、教えや掟より、個々人を大切にする方です。今回の聖書箇所も同じ。

「姦通(不倫のこと)の現場で捕らえられた」…考えてみれば大変なことです。どういう関係であれ、秘め事の中に他人、それも自分たちはいつだって正しいと自認している「律法学者たちやファリサイ派の人々」がどかどかと踏み込んで来たのですから。

その混乱、恥ずかしさ…そしてこの聖書箇所を読むたびに思うのですが、相手の男性はどこにどうしてしまったのでしょう。イエス様が逮捕された時のペトロのように、こっそりこの女性の後を追っていたのでしょうか。それともどこかに逃げてしまったのでしょうか。

さらに「この女は死刑ですよね」という質問の無神経さ。質問をしている人たちは、イエスがYesと答えるか、Noと答えるか、舌なめずりしながら待っています。なぜなら、Yesであれば彼の説く愛の掟に反するばかりかローマ帝国の占領地民に許されていない死刑を宣告することになります。Noと答えれば、ユダヤ人たちにとって大切な大切な律法を無視することになります。

イエス様は、この人たちをじらすかのように、あるいは時間稼ぎでもするかのように、地面に何かを書いていた。人々は「さあ、どうする」とイエス様に迫ります。「じゃあ、あなた方の内で自分は何ひとつ罪を犯していない、自分は完全に律法に忠実だ、と思う人から石を投げるんだね」。

この言葉に、さすがに良心の痛みを感じた人々は「一人また一人と、立ち去って」しまいました。

なんて残念なのでしょう。この人たちこそ、この女性と同じく罪を犯した者として、唯一その罪を赦す権能をもっているイエスの元に踏み止まるべきだったのに。

残されたのは、罪の状態にある女性と、その罪を赦す権能をもつイエス様の二人、という方が物語のクライマックスにはなりますが、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」という言葉は、律法学者たちやファリサイ派の人々にも、またこの女性と共に罪を犯した男性にも、その罪を自覚したなら掛けられた言葉だったはず、と私は思うのです。

イエス様、どうかいつもあなたのみ前に踏み止まらせてください、「愛されている罪人」として。

 (Sr.斉藤雅代)

≪聖書箇所≫ ヨハネ 8:1-11

(そのとき、)イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」