9/8 若い人のための日曜日の聖書  年間第23主日 ルカ 14:25-33

担任をしていた頃、クラスの生徒のために作った計画表。こんなものを一所懸命作っていた私と、必死についてきてくれた生徒が懐かしいです

計画を立てる―と言ったら何を連想しますか?

私は、担任時代にクラスに配布して提出を義務付けた(!)夏休み、冬休みの計画表を思い出します。どのような表にしたら生徒がよく活用して、長期休暇を無駄に過ごさないか、工夫に工夫を重ねました。おそらく、多くの生徒たちにとっては、迷惑千万な代物だったことでしょう。

さて何の計画であっても、計画を立てるためには、計算が必要です。たとえば、私はこの日、勉強のためにどれだけ時間を割けるか、とか。

信仰と計算!

なにか、ちぐはぐな感じですが、ルカによる福音書のイエス様は、何のためらいもなく信仰には計算に基づく計画が必要とおっしゃいます。そしてきちんと計算して計画的にしなくてはならない例を二つ上げて、自分の弟子になるなら、「自分の持ち物を一切捨て」ることがその第一歩であるとおっしゃいます。

普通、何か計画を立てると言ったら、何かを準備することになるでしょう。旅行に行く計画だとしたら、持ち物を準備するとか、ガイドブックを買うとか。つまりプラスの計画です。しかしイエス様の弟子になるのは引き算の計画です。すべてを手放して、神様だけをいただくこと。

ただしルカによる福音書はむやみに手放しなさい、と勧めているわけではなく、きちんと「計算」しなさいと言います。この世に生きる限り、特に現代社会に生きる限り、持ち物を一切捨てることも、親子、兄弟姉妹、夫婦といった自然の繋がりを捨てることも、不可能です。自分の命を捨てることだって、おいそれとできるわけではありません。

ただ、神様がそれを求める「時」があることは確かでしょう。たとえば修道生活に招かれる時、結婚する時、子どもの教育や親の介護を優先的に考えなければならない時、仕事の変更や引っ越しを余儀なくされる時、そして死ぬ時、一切を手放しなさい、と神様が私たちに命じる「時」です。

またもしかしたら、ルカのいう「計算」には、求められない時に捨てようとするのは愚かだ、ということも含まれているかもしれません。よいサマリア人が、けがをしたユダヤ人のために全財産を投げ出したとは書いてありませんから(デナリオン銀貨2枚が安いわけではありませんが)。

それにしても、日々、小さな「捨てる」行為ができない人が、求められた時に突如捨てられる人になる、というのはやはり考えにくいかなあ、と思います。他者のために1分も割けない人が、ある日突然隣人のために命を捨てられるでしょうか。そう考えると、信仰と計算を並べたルカには、学ぶところがたくさんあります。

おそらく計算するより前に「お言葉どおり、この身に成りますように」とおっしゃったマリア様は、このように天使にお答する前にも後にも、どれほど小さな「捨てる」行為を実行されたことでしょう。その小さな行為が、十字架のイエス様のそばに立つ、という最大の捨てる行為につながった、と私は確信しています。

主よ、あなたのために、あなたともっと一致できるために、求められた時に捨てられる人になれるように、日々、小さな「捨てる」行為を実行できるよう、私に力を貸してください。計算高く生きようとは思いませんが、私が今、賢い計算をしようとするなら、日々、「捨てる」ことに慣れる人になるよう努力していくしかないと思うのです。   (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ ルカ 14:25-33

(そのとき、)大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」