イエス様のたとえ話って変!
時々そう思います。
だって、今回の福音は不思議です。
「あの人、不正を働いていますよ」と密告されて首になりかけた財産管理人が、主人から首になっても大丈夫なようにさらに不正を重ねて主人に損をさせ続けているのに、その管理人を主人が褒めるというのですから。
しかもその後の節で突然「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」。
だからこのたとえ話は別の読み方をしなくてはならないでしょう。
それで、私流読み替えはこうです。
ある人が、神様に「そんな生き方では天国に入れないよ」と言われました。あなたならどうするでしょう。開き直って、「地獄でいいや」って思えますか?
どんな手段を使っても、何とかして天国に入りたいと思うのでは?
なりふりかまわず天国を目指す人にとって、この世の道徳は関係ありません。
その姿が、この管理人のやり口に現れている、とするなら、その後の節との繋がりもおかしくはありません。
さて振り返って、私はこれほどまでに天国を求めているでしょうか。
現代のカトリック信仰は、あまり天国に重きを置いていないように思える時があります。
もちろん死後のことばかりを目的に生きるのはおかしいですが、現世における活動(貧しい人に奉仕するとか、地球環境を大切にするとか、憲法問題にかかわるとか)にのみ重心を置くのも問題です。
この二つのバランスをとること。
現世にしっかりと根付き、福音宣教しながら、なおかつ神様、あなたを見つめていること、どうかそのように生きさせてください。 (Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ ルカ 6:1-13
(そのとき、イエスは、弟子たちに言われた。)「《ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』6:1-13主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。》
ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えること