今を去ること40年、私は二十台の半ばで洗礼を受けました。振り返ってみると、主は様々な時期に、様々な手段を使って、私をカトリック信者になるように環境を整えてくださいました。
結婚前にプロテスタントの教会に通っていた母が、よく美しい声で賛美歌を歌っていたこと。結局母は、その時には洗礼には至らず、のちにカトリックの洗礼を受けました。
小学校の4年生か5年生の時、父が誕生日のプレゼントにイエス・キリストの伝記を買ってくれたこと。表紙は、ゲッセマニで祈りを捧げるイエス様でした。
中一の担任の先生が美術の先生で、美術館で絵画や彫刻の展覧会を見ることを勧めてくださったこと。当時見たエルミタージュ展の、「聖母マリアの少女時代」の清冽な美しさや、中世やルネサンスの美術展を見にいくとかならず「受胎告知」というタイトルの絵画が何点もあることが強く印象に残っています。
高校(都立でした)で入ったコーラス部で最初に練習したのは、ロッシーニの『三つの聖歌―信仰・希望・愛』でした。この後、様々な作曲家のAve Mariaやミサ曲など、たくさんの聖歌を練習しました。
神様は、私が感性に動かされる人間であることをよくご存じで(当たり前!)、感性を通して私をキリスト教へ、カトリックへとひっぱってくださった、と思うと本当に感謝です。
さて、こうして洗礼への道筋を整えられ、さらには修道生活に入るという恵みをいただいて、感謝、感謝の生活です…と書きたいところですが、そうはいきません。
受洗前から教会の聖歌隊に入り、歌ったりオルガンを弾いたりしていましたが、そこにはいつも何らかのトラブルがありました。
修道院の中だって同じです。
教会でも修道院でも、みんなでよいことをしよう、より神様に近づこうと思っているのです。それでも、この世の中で誤解や行き違いはつきものです。感性や感覚がじゃまをして、「あの人のあれがイヤ」とか「これだけは許せない」とか。
「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」
このイエス様の言葉が、祈りの中で響いてきました。
たとえ洗礼を受けても、私たちは不完全なままです。それでも、洗礼によってイエス様の弟子になることで、神の国の方へ一歩踏み出すこと―それが大切なことではないかと思います。
イエス様の洗礼を祝いながら、自分の洗礼を思い出し初心に帰りたいと思います。この洗礼が、いつかもっと完全な、愛がそのままの形で存在する神の国に至ることを信じて。
もし、これを読んでくださる方の中で洗礼を迷っていつ方がいらしたら、一歩踏み出すことをお勧めします。たとえ同じ私でも、その「私」と神様がもっと近くにいてくださることになるのですから。 (Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ マタイ3:13-17
そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。