1/3 若い人のための日曜日の聖書 ご公現の主日 マタイ 2:1-12

Kiyofumi Tomiiさんという方のFacebookから

昨年の12月21日の夜、土星と木星が大接近する、ということで、私は日没後に一生懸命空を見上げてみましたが、残念ながらちっとも見えませんでした。クリスマス前の忙しさに紛れて忘れていましたが、Facebookのあるお友達がこの日にシェアした記事を後から見てびっくり!この日同時に、木星と蝕に入った三つの星が「東方の三人の学者たちの星」だったそうで、つくづく見たかったなあと思いました。何しろ397年ぶりの接近だそうで、次(2417年!)に天国から眺められたらいいなあと思っています。

そのシェアした方の画像を今回お借りしています(これから、その方に友達のリクエストを送る予定です)。

聖書によれば星を見て旅立った占星術の学者たち(三人とはどこにも書いていないけれど)が、さらに星の名前になっているって、すてきだなあと思いました。

さて、東方で星を見て「ユダヤ人の王」を拝みに来た、とはどういうことなのでしょうか。

彼らにとっては外国、しかも当時の地中海世界で決して政治的にも経済的にも力をもっていたのではない国の王様です。

もしコロナ禍がなかったら、新しいアメリカ大統領の就任式を見に行くツアーがあったかもしれません。ツアーに申し込まないまでも、その日のニュースは全世界で放映されるでしょうし、多くの人がその映像を見ることになるでしょう。でも、どこかの小さい国、名前の知名度も低い国の王様だったら? そうであっても、私に何か「その人を見に行きなさい」と神様からの促しがあったら?

このように想像すると、星を見て旅立った学者たちこそ、羊飼いたちとならぶ「世界で最初のキリスト者」と言えるのかもしれないと思えてきます。

私は今、このコロナが蔓延する社会で何を見ているのでしょう。そこに、星のようにきらめく「神様からの促し」があるのでしょう。もしかしたら、それが星のようにきらめくものでないために、見逃してしまっているのかもしれません。12月21日の私のように。星は空にあったのに、東京の明るい光にかき消されて、私の目からは見えなかったのです。

神様、どうか私の心の目を開いてください。あなたからのメッセージが見えて、たとえそこに何があるのか分からなくても、そこに向かって希望をもって歩めるように。

神様、どうか新年はじめの主日にあたり、希望を希望させてください。

現に見ている希望は希望ではありません。現に見ているものを、誰がなお望むでしょうか。まだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは忍耐して待ち望むのです。(聖パウロのローマ人への手紙8:24fより)

(Sr.斉藤雅代)

≪聖書箇所≫ マタイ2:1-12

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。