今まで、だれかからプレゼントされたもので、一番嬉しかったものはなんですか。
「もの」に限ってちょっと考えてみてください。
以前中学生の担任をしていた時、「今、一番欲しいものはなあに」という質問をしたことがありました。
即座に数人が元気よく「お金!」と答えた時には、そのあまりの正直さと即物性にちょっとがっかりしてしまいました。
だから、「もの」に限りましょう。
私にとってはピアノです。
貧しい家計の中で両親がローンを組んで買ってくれました。
修道会に入った直後、それまで同じ教会に属していた、ピアノを必要としていた女の子に譲りました。
残念ながら、このピアノの写真が一枚もないのですが、20年ほど、私の部屋の中で燦然と輝いていました。
このピアノがなかったら、どんな人生になっていたでしょう。
母校とは縁がなかったでしょうし、留学もせず、従って洗礼も受けず、シスターにもならなかったでしょう。
単なる「もの」であっても、人生を変えることになりうるのですね。
先週、天に昇っていくイエス様を呆然と見つめ、(おそらく)心細い気持ちでいっぱいだった弟子たちは、今回の聖書箇所で、約束どおりイエス様からプレゼントをいただきます。
天の父である神様とイエス様との愛の滴りである「聖霊」。
復活、昇天、聖霊降臨という50日あまりの間に連続して起こった三つの出来事は、弟子たちの考え方や行動パターンを根底から覆します。
「イエス様は好きだけど、同じように死ぬのは勘弁してほしい」という思いから、「復活させられたイエスは神の子であり、唯一の救い主である」という福音を全世界に告げる者になっていくのです。
そのために聖霊は、彼らに「言葉のたまもの」、現代風に言えば「コミュニケーション術」を与えてくださいます。
弟子たちの多くは、このたまものを使ってキリスト教を広め、ついにはイエス様と同じように殉教していきます。
こうして、二千年がたっているわけです。
「もの」でさえ、人の人生を変えうるのですから、まして神様からのプレゼントは計り知れない重みをもっています。
この聖霊は、望めば私たちにも注がれます。
「求めなさい。そうすれば与えられる」(マタイ7:7) (Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ 使徒言行録2:1-11
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」