あなたは、待つことが得意ですか、それとも苦手ですか?
短気で忍耐力のない私は、得意とはいえません。
でも、待降節にクリスマスを待つのは、決していやではありません。
クリスマスの飾りつけをしたり、カードやクッキーを準備して送ったり、ご降誕のミサの準備をしたり…することは数限りなくありますが、絶対に24日の夜にはすべてが完了して、穏やかな気持ちでごミサに与れる、と分かっているから、つまり期限付きだから「いやではない」のかもしれません。
さて、今回の福音箇所の主役は洗礼者聖ヨハネです。
聖書の中には、心惹かれる聖人がたくさん出てきます。何と言っても筆頭はマリア様、ヨセフ様、ペトロさん、パウロさん・・・その中で、洗礼者聖ヨハネほど忍耐強い信仰をもって救い主の訪れを待った人はいないかもしれません。
マリア様とヨセフ様にはイエス様の誕生が「起こる」ということが分かっていました。
ペトロさんとパウロさんは、ご降誕の時点では待つことがありませんでした。(彼らが待ちわびたのは、むしろ復活かもしれませんね。)
洗礼者聖ヨハネは、母エリサベトの胎内でイエス様に出会って以来、「いつ、救い主の活動が始まるのか」と待っていました。
荒れ野で呼び出しを受けたヨハネは、どんな気持ちで、人々に悔い改めの洗礼を伝えていたのでしょう。
今回の福音書の続きの箇所には、多くの人々が彼の元に来たと伝えています。
そして、彼自身を「救い主」ではないか、と思っていた人もいたと。
でも実際には、イエス様の登場は、彼の「準備」という活動の終わりを意味していました。
このヨハネの潔い生き方に「滅びの美学」を感じるのは、私が日本人だからでしょうか。
と同時に、この「滅び」が希望に繋がっていくキリスト教の不思議も感じています。
キリスト教を信じるとは、どうにも希望を持てないところで、さらに希望を持ち続けることです。
暗闇に輝く、小さな灯火のように。
待降節のろうそくの二本目をともしながら、洗礼者聖ヨハネに、待つことを教えていただけるようお願いしましょう。神の救いを仰ぎ見ることができるように、何としても自分の内面の凸凹を平らにしなくては!
≪聖書箇所≫ ルカ 3:1-6
皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。
谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。
曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」