13日から始まった今週(先週と言うべきですね)は、私にとっては、個人的な心配事と仕事上の困難さが重なって、つらい週でした。
私たちの修道会の創立者聖マルグリット・ブールジョワの手記の中に、次のような節があります。
私はもうどうしたらよいのか、全く途方に暮れてしまいました。イエズス会の聖母聖堂を訪問し、「聖母よ、もうおしまいです!」とアヴェ・マリアを一回唱えたきりほかに何の祈りもできませんでした。
この手記は、彼女が聖堂を出ると思いがけない一人の人が近づいてきて、問題が解決に向かって動いていったと続きます。
私もこのひどい週の後に、やっとルカ福音書の先週の「平地の説教」の続きに戻り、あらためて、すべての原因は、私が「敵」を愛せないこと、祝福を祈れないこと、もう一方の頬を差し出せない者であることだと気づきました。不思議なことに、自分のこの傲慢さに気づいたら、心配事や困難さを少し違った感覚で受け止められるようになりました。
今は、この限りなく貧しい私を、イエス様の前に差し出して、憐み深く寛大な神様の愛を感じ、愛せる者にしてください、と祈ります。マリア様、どうか私が人を裁かず、ただ愛せる者になれるよう、取り次いでください。
≪聖書箇所≫ ルカ 6:27-38
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」