四旬節と言うのは不思議な季節です。
第一主日の頃に、灰の水曜日には毎年何かしら起こると書きましたが、考えてみると、四旬節全体を通して、私自身の生き方や誓願を見直すチャンスを神様がくださっているようです。
それは、日常のとてもとても忙しい様々な出来事の中に見え隠れしていて、あまりにも小さいし、実際のところまったくもって見たいものではないので、見ないふりをしてスルーしたくなります。踏みとどまって、自分の内面に降りて、神様と呼吸を合わせたとき・・・ほら、問題点がはっきりしてきます。
神様、おゆるし下さい、あなたとの時間をきちんと作らない私、作れない私を。
今日は寒いけれど、修道院の庭に出ると春の息吹きがいっぱいです。
ご復活を待ち望みながら、今週は青銅の蛇を見上げたイスラエルの民にならって、あなたの十字架を見上げながら過ごします。
≪聖書箇所≫ ヨハネ3:14-21
(そのとき、イエスはニコデモに言われた。)「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」