4/21 若い人のための日曜日の聖書 復活節第四主日 ヨハネ10:11-18

春たけなわのルルド

「あなたは今、何に命をかけていますか?」

「何になら命を懸けられますか?」

「わたしは羊のために命を捨てる—というイエス様のみ言葉は、当時の人の耳にさえ、不思議に聞こえたでしょう」、と今朝のごミサを司式してくださった神父様がおっしゃいました。

なるほど。

私たちは、「良い羊飼い」とはイエス様のことにほかならず、「羊」は私たちだ、と自明のごとく思っていますから、何の不思議も感じず(従って、さして感動もせず!)読んだり聞いたりしていますが、あらためて、イエス様が家畜であり、食用であり、いけにえ用だった羊のために命をささげてくださったというパドックスに気づかされました。

そしてそう気づいて自問したのが、最初に掲げた質問です。

大切な人のため、子どものため・・・様々な答えがあるでしょうが、私たちが何に命を懸けたとしても、それは神様の栄光をあらわすためでなければ空しいです。

神様、どうかまっすぐにあなたの方を向いて、「あなたに命をかけます」と言え、それを生きていく私にしてください。

 

≪聖書箇所≫ ヨハネ10:11-18

(そのとき、イエスは言われた。)「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」