2017年9/24 若い人のための日曜日の聖書  年間第25主日  マタイ20:1-6

「善ちゃん、こんなに天気がいいのに学校に行くのかよ」。

これは私の父が子どもの頃、秋晴れの朝に友だちから言われた言葉です。

昭和初期の農家の子どもは、収穫期の天気のよい日には、学校ではなく田圃で家の手伝いをするのが当たり前だったようです。

言われた父がそれでも学校に行ったのか、行かなかったのか、生きているうちに訊ねてみればよかったです。

10年ほど前に私が中米に滞在していた時も同じでした。

コーヒーの収穫の頃には、町中には大人も子どもも少なくなり、一族郎党総出で農園に行きます。

特に子どもの手は小さいので、茂みの中の真っ赤なコーヒーチェリーを摘むのに適していると言われていました。

二千年前のイスラエの人々にとっては、ぶどうの収穫期がこれにあたるのでしょう。

 

通常この聖書箇所を中高生の宗教の時間に扱うと、「そんなの不公平だ」と必ず言われます。

私たちには、近代的な労働と賃金の相関関係が染みついているのです。

ちょっと、Wikipediaの「賃金」の項目をのぞいてみましょう。

次のように書かれています。

 

賃金とは、使用者が労働者に対して、労働に対する報酬として支払う対価のことをいいます。 労働基準法では「この法律で賃金とは、賃金、給料、手当、賞与その他名称の如何を問わず、労働の対償として使用者が労働者に支払うすべてのものをいう。」 と定義されています(労基法第11条)。

 

しかし今週も神様はおっしゃいます。

「私の計算は社会通念とは異なるよ」と。

 

今回は、ぶどう園の主人が、労働者を得るために何度も何度も広場に足を運んだことに注目してみましょう。

主人は切実に労働者が欲しかったのです。

このたとえは「天の国」のことだと最初にはっきり書かれていますから、神様が天の国のための働き手を切実に求めていらっしゃる、と考えてもいいでしょう。

ほら、神様はありとあらゆる機会をとらえて、私を、あなたを、天の国に、救いに、永遠の愛に招き、また私たちも周りの人を招くようにと力を尽くしてくださっているのです。

この「切実な呼びかけ」に応えるのは、難しいことではありません。

ひとつの微笑み、ひとつの「ありがとう」、ひとつの親切だって、切実な呼びかけへの応えになりうると、私は思います。 (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ マタイ20:1-16

「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」