修道院に入る前、私の属していた東京の板橋カトリック教会でチャペルの改修工事が必要になり、大工さんたちが入ったことがありました。
冬の寒い時期でしたので、主任神父様は彼らの昼食のために、「チャペル以外のどの部屋でもいいですから暖房を点けて使ってください」と言いました。
教会には、たいてい集会室や会議室、勉強部屋などが付属しています。
ところが昼食時に神父様が気が付くと、大工さんたちは外の寒いところでお弁当を広げています。
「どうして暖かい部屋を使わないのですか」と質問すると意外な答えが返ってくました。
「あのー、どの部屋にも十字架がついているので…あの前ではとても食べられません」。
確かに教会の部屋々々には必ず十字架が掛けてありました。
カトリック学校のすべての教室と同じです。
大工さんたちは、キリスト教の信者ではありませんでしたし、おそらくそれまで、十字架像を身近に見たこともなかったのでしょう。
そこにはりつけになっているイエス様についても、何もご存知でなかったかもしれません。
しかし、人が苦しんでいる像の前では御飯がのどを通らない、という大工さんたちに、神父様は深く考えさせられたとのことでした。
私たちは、あまりに慣れっこになってしまっていて、十字架像を見ても「痛そうだな」とか「かわいそうだな」とか、「私のためにこんなに苦しんでくださっている」という思いが希薄になっている。
これは、とてもこわいことだと私もこのエピソードが忘れられません。
イエス様はご自分の受難と復活に関して三度弟子たちに告げられます。
しかし弟子たちには何のことやらさっぱり理解できません。
ただならぬ様子のイエス様を見て「非常に悲しんだ」(Mt17:23)と書かれていますが、その後の弟子たちの言動をみると、とてもイエス様の伝えたかったことをしっかり受け止めていたとは思えないありさまです。
イエス様は、祭司長や民の長老たち(つまり、宗教的権威、あるいは経済的権威でユダヤ社会を牛耳っている人たち)に今回の箇所のたとえを話されましたが、同時にこのたとえは、弟子たちにとって四度目の予告になりました。
当然、弟子たちもイエスの周りでこのたとえを耳にしていたはずですから。
私は、このたとえを語るシーンは本当に悲しいな、と思います。
ある意味、本番の受難の場よりも。
「自分の息子なら敬ってくれるだろう」と父である神様がイエス様をこの世に遣わしたのに、「息子だから殺してしまおう」という逆の結末になるのです。
そこには、「相続財産を我々のものにしよう」、つまり神からの恵みの独占、という私利私欲しかありません。
しかも本当に望んでいるのは「恵み」でなく、恵みに裏付けられたように見える権威や権力です。
祭司長や民の長老たちも、弟子たちも、そして悲しいことに私たちも同じです。
この私利私欲を清めるために、イエス様は十字架にかけられました。
この「十字架」に、私たち(キリスト者であってもなくても十字架の何たるかを多少なりとも知っている者)は慣れっこにならず、見上げるたびに感謝する者でありたいです。 (Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ マタイ21:33-43
(そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。)「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。