毎週金曜日の午前中にこの「若い人のための日曜日の聖書」をアップし続けてほぼ一年たちました。
今日は4/16の復活祭の聖書箇所を載せる予定でしたが、こう書いている今はまだ金曜日の午前中。
昨晩は、最後の晩餐を記念するミサが行われ、今晩はイエスの死を記念する式が行われます。
それで今回は、最後の晩餐でイエス様がおっしゃった言葉と、最近の経験について書かせていただくことにしました。
今、ここの修道院のひとりのシスターがたいへん重い病気で入院しています。
それで私たちは、ご家族の助けもお借りしながら毎晩交代で朝まで病室に詰めています。
もちろん完全看護の大病院ですが、特別に許可されました。
一昨晩は私が付き添いました。
30分おき位に、赤ちゃんがお母さんに何か訴えかけるように、小さな呻き声をあげます。
「どうしたの」と声をかけると、「寝返りをうたせて」「お腹さすって」「氷が欲しい」などなど。
ただ「顔を見せて」と言うリクエストもありました。
彼女の小さな要求に応えながら、映画でも有名なマーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』のあるシーンを思い出しました。
南北戦争で傷を負って銃後に運ばれてきた兵士たちの看護にうんざりしている主人公スカーレット。
その傍らで、義妹のメラニーは心を込めて一人ひとりに接しています。
そして、「もしかしたら今、アシュレー(メラニーの夫)が傷ついて北部の親切な女性に助けてもらっているかもしれないわ」。
メラニーにとって、目の前の身知らぬけが人たちはどの人も、愛する夫そのものなのです。
愛する夫に直接してあげることができないから、目の前の人に尽くしているのです。
最後の晩餐の時に、イエス様は弟子たちの足を洗います。
これは、当時、大切なお客様をお迎えする時に通常は奴隷にさせる「おもてなし」の行為でした。
そして「私はあなた方の先生だけど、あなた方のために奴隷の仕事もいとわない。
あなた方も愛をもって互いを大切にしなさい」とおっしゃったのです。
続くシーンの言葉はもっとはっきりしています。
「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。
砂漠地帯をやって来たお客様の足は、当然のことながら、砂ぼこりで汚れています。
最後の晩餐の時の弟子たちの足も汚れていたことでしょう。
もちろんイエス様の足も。
私は、いくらイエス様を敬愛していても、祈りの中以外でその足を洗って差し上げることができません。
だから今、このベッドに横たわる姉妹が与えられている。
そう思ったら、目の前の姉妹が、本当に輝いて見えてきました。
≪聖書箇所≫ ヨハネ13:1-15
さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」。