2017年11/5 若い人のための日曜日の聖書  年間第31主日  マタイ23:1-12

「雅代ちゃーん、惠子ちゃんが呼んでるよ」。

「君ねえ、そうじゃなくて『先生、校長先生がお呼びですよ』と言うべきでしょう」。

明治学園で働いていた頃、シスターを含め女性教師をファーストネームの「ちゃん付け」で呼びたがる一部の男の子たちに、私は礼儀として「先生」と呼ぶことを強要していました。

 

桜の聖母学院でも同じような経験をしました。

私が顧問をしていた吹奏楽部では、コンクールや定演が近づくとしばしば卒業した先輩方が差し入れをしてくださいましたが、まずは生徒たちに配って、余ると私たちのところにまわってきます。ご丁寧に「あまりましたー」と。

「欲しくて言っているわけじゃないのよ。でも、最初に指揮者の先生のところに『○○先輩からいただきましたのでどうぞ』と持って行ってね」。

このように指導して、やっと最初に私たちのところに差し入れが来るようになりました。

もちろん、「みなさんが先にどうぞ」と答えるに決まっているのですが。

 

今回の福音箇所では、文化を大切にしながらも文化を突き抜けているイエス様と、ユダヤ教の文化の中でしかものを考えない「律法学者たちやファリサイ派の人々」の対立が描かれています。おそらく彼らは、「律法を大切にしている人たち」と尊敬を払われて当たり前と考えていたでしょう。

しかしイエス様は、彼らが見た目の尊敬だけを追い求めていることを見透かしています。

 

冒頭に書いたようなエピソードを思い出す時、私の心は本当に生徒たちに仕える者として礼儀を教えていただろうか、イエス様は私に対して「雅代、あれは律法学者やファリサイ派と同じだったよ」とおっしゃられないだろうか、と冷や汗です。

そしてこれを読んでくださる元生徒の方々は、イエス様以上に鋭敏に、私が真の意味で「仕える者」であったかどうか、感じ取っていらしたことでしょう。

 

一年半前に市立の図書館に勤めるようになって以来、久しぶりに先生がとれて、「斉藤さん」と呼ばれています。少々寂しくもあり、同時に気楽でもあります。時々中高生が図書館にやってくると嬉しくてたまらず、できるだけ感じのよい対応を心掛けています。「学校の図書館より親切で使いやすい」と言われたこともあり、本来は学校の図書館が一番使いよくないと困るのですが、やはり嬉しくなってしまいました。

問題は、「先生」と呼ばれるかどうかでなく、「仕える者」であるかどうか。

最高の「仕える者」として私たちのために命すら差し出してくださったイエス様を見習っていきたいです。   (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ マタイ23:1-12

それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない」。