2017年11/26 若い人のための日曜日の聖書  王であるキリストの主日  マタイ25:31-46

世の中には、見ず知らず人にも親切にできる人とそうでない人とがいる―。「袖振り合うも多少の縁」を実行できる人とそうでない人。よいサマリア人と、祭司やレビ人。ずっと前から、そんなふうに感じていました。このできるできないは、年齢や性別や育ちには無関係。まして学歴や地位にはまったく関係ありません。残念ながら、キリスト者であるなしにも。「そうでない人」の典型のような私だから、いっそうそのように感じるのかもしれません。

『川の光』(松浦寿輝著)という本を読んでいます。正編と続編を読んで、今は外伝に取り掛かったところ。アニメにもなっているそうですが、原作は、動物たちが主人公とはいえ、言い回しや心理描写は立派に大人向けです。

続編の中に「ビス丸」という名のシェパードが出てきます。わがままに育てられた自己中のお坊ちゃま犬。このビス丸が、旅の途中で仲間とはぐれ、さらに重い病気にかかってしまいます。公園の片隅に身を横たえて、もう死ぬのかなあ、と思っているところに、中学生の男の子直樹が通りかかります。直樹も、病気で学校を休んでいる身ですが、お母さんの猛反対を押し切り、お父さんと共にビス丸を引き取ります。直樹にとってビス丸は「見ず知らずの犬」。でも彼は、よいサマリア人のようにビス丸に近寄っていくのです。そしてビス丸と目が合った瞬間に、もうできる限りのことをしないではいられなくなってしまいます。

この小説は人間(直樹やその家族)の側からよりも、動物を中心に描かれていますので、読み手には、この直樹との出会いと彼の愛がいかにビス丸を変えていくかがよく分かります。しかし、肝腎の直樹にその自覚はまったくありません。きっと彼はこの世の終わりに、イエス様に言うでしょう。「主よ、いつ私はあなたをお助けしたでしょうか」。

主よ、どうぞ「そうでない人」の典型である私を変えてください。もうずっと前に、あなたに出会い、あなたから無償の愛を受けているのですから。   (Sr.斉藤雅代)

動物たちは、都心を横切る大冒険をします

 

≪聖書箇所≫ マタイ25: 31-46

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」