2017年12/10 若い人のための日曜日の聖書  待降節第二主日  マルコ1:1-8

調布修道院の待降節の輪

「お父さんとお母さんは、お家の中でどんなふうに違った働きをしていますか?」

昔、教会学校で、三位一体の神の働きの違いを説明するために、こんな質問をしました。

答えは…「違ってなんかいないよ。おんなじだよ」。

(この一言で、私の教案はパーになりました!)

「お父さんは外で仕事、お母さんは家で私のめんどうをみてくれる」という構図の中で育った私と異なり、近ごろ(といっても三十数年前)は男女が共に外で働き、共に子育てに関わるのか、と目を開かせられた思いでした。

明治学園に勤め始めた時も、生徒会長や男女混合クラスの学級委員長が必ずしも男子でないことに、時代の流れを感じました。家庭科男女共修前に中高を出た私にとっては、「長」はいつも男子の役割で、女子は「副」を務めるというのが不文律でした。

男女参画が進み、同時に「サーバントリーダーシップ」(リーダーとは、まず相手に奉仕し、その後、相手を導くものである)のような考え方が社会に定着してくるのは、世の中に少しはイエス様のお考えが伝わっているしるしかもしれません。

さて、四つの福音書のはじめの方に登場する洗礼者ヨハネは、「副」に徹した人でした。イエス様をだれよりもよく理解し、イエス様を的確に世に紹介しながら、なぜか弟子たちのようにイエス様と行を共にすることをしませんでした。「粛々と、与えられた使命を全うする」とでも言ったらよいか。「粛々と」という、最近の日本語では意味が変わりつつあるらしい言い回し(形容動詞?)は、彼にこそふさわしいと思います。

私は、イエス様の「副」に徹し、イエス様を的確に周りの人に紹介しているでしょうか。

イエス様に、祈りの中でうかがっているところです。  (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ マルコ 1:1-8

神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」