「レンタル友だち」!
クリスマスも近い12月15日、NHKでショックな番組を見ました。
レンタルの恋人とデートする、というのは聞いたことがありました。
ところが番組に出てきたのは、レンタル友だち、レンタル妻、レンタルおやじ、レンタル親。
友だち以外は、それぞれレンタルを利用する理由をきいてある程度納得できました。
離婚したことを知らせていない知人から結婚式の仲人を頼まれたのでレンタル妻。
カミングアウトしたらいいのに、と思いますが。
会社での悩みを打ち明けたい若い男性やゴルフを教えてほしい女性がレンタルおやじの利用者でした。
そして、叱っても叱っても一向に親の言うことをきかない子どもに「レンタル親に言ってきかせてほしい」とリアル親。
これって、もしかしたら、私にもできるかも。
レンタル母親かレンタルばあちゃんって、私にぴったりだと思いませんか?
問題はレンタル友だちです。
友だちを、しかも素敵な友だちをたくさんもっているように見せかけたいから、レンタル友だちとどこかに出かけてインスタ映えする写真をアップする人。
見せかけて、どうするんだろう?
また、リアル友だちが相手だと「後くされ」が心配で悩みを打明けられない人の話の聞き手。
お金で解決するのが一番手っ取り早くて、気を使わなくて済む、ということですよね。
ともかく、需要(レンタルを必要とする人)があって、同時に供給(レンタルしたい人)があるというのです。
さて、このような世の中で、聖家族(イエス、マリア、ヨセフの家族をこのように呼びます)は、「家族」の、また人と人の絆のモデルです。
それは、理想的な家族、と言う意味ではありません。
聖書の語る話を思い出してみてください。
天使のお告げ、などという夢物語のようなもののために、マリア様は、あやうくシングルマザーになるところでしたね。
マリア様とイエス様は、遺伝子的に繋がりがあったのでしょうか。
一方ヨセフ様は、どんなに「自分の子」が欲しかったことでしょう。
周りの人はどのような目で、この二人を見ていたでしょう。
でも、三人にとって、周りの目などどうでもよかったのです。
旅の途中、暖かい家もない、清潔な寝床もない、おそらく産婆さんもいない、この世の荒波の中で、三人は、神様だけをよりどころとして誕生した「聖なる家族」でした。
血よりも濃い、神様の絆で結び合わされた家族でした。
神様だけが、バラバラになってもなんの不思議もないこの三人を聖なる家族としたのです。
だから、マリア様は「代理母」ではないし、ヨセフ様は「レンタルパパ」ではないのです。
また、「聖家族」というと、いつも愛にあふれていて、けんかも反抗もないように感じますが、私はそんなはずないと思います。
マリア様とヨセフ様にだって、意見の食い違いや誤解はあったでしょう。
またイエス様が反抗期もないただの「良い子」だったとは思えません(特に、成人してから言動をみると!)。ただ、それらをしっかりと受け止めて、さらに聖なる家族になっていったのではないでしょうか。
私たちは、この家族から様々なものを学び取ることができるでしょう。
この聖なる夜にあたって、「レンタル」でない、すなわち金銭の授受を伴わない本当の友だちを全ての人がたった一人だけでも見つけられますようにと祈ります。せめてこのクリスマスに「レンタル友だち」や「レンタル家族」でなく、リアルと過ごせますように、と祈ります。 (Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ ルカ1:26-38, 2:1-14, 22-40
六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」神にできないことは何一つない。」
そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。