2018年1/14 若い人のための日曜日の聖書  年間第二主日  ヨハネ1:35-42

ムリリョのイエスとヨハネ

あなたには、親友と呼べる人がいますか?

中高の教師をしていた頃、いっつも一緒にいる「友だち」はいるけれど、案外、自分の心の奥底や家庭の事情までさらけ出すことのできる親友をもっている生徒が少ないことに気づきました。

まあ、大学に行ってからか、社会に出てから見つかるのかもしれません。

私も、親友と呼べる人は二人だけ。一人は同じ修道会の中に、もう一人は違う修道会の神父様です。一人とは40年近い親交で、もう一人とは30年くらいです。二人もいるのは、幸せなことなのかもしれません。シスターという、普通の人にはなかなか理解されにくい立場ですので、どうしても同じような在り方をしている人に限られてくるのかもしれません。もしシスターになっていなかったら、高校、大学時代の友人と今も行き来していたかなあと思います。

さて、どうしてこんなことを話しているのかというと、昨年の待降節からずっと、イエス様と洗礼者ヨハネの関係が気になっていたからです。ヨハネは、イエスのことを「もしかしたら救い主(メシア)かも」と思い、自分の弟子を差し向けます。それなのになぜ、彼自身はイエスのグループに加わらなかったのでしょう。私は親友の一人(神父様の方)にたずねてみました。

答えは単純でした。二人の生活様式がまったく違っていたから。ヨハネは、騒々しい世の中から離れて、汚れのない生活を送ることで神と一致しようとしていました。一方イエスは、その騒々しく汚れた世の中に分け入り、中でも弱い立場の人、見捨てられた人に係わっていました。そこに神の国が実現すると説きました。

そして結果的には、二人とも当時の為政者に殺されてしまいます。

二人は、聖書だけを頼りにするなら、生きている間に数回しか出会っておらず、言葉もそんなに交わしているわけではありません。それでも、二人の間には暗黙の連帯感があった。それは、生活の仕方」こそ異なっついたけれど、神様との一致を目指す生き方をしていた、という点で二人は親友だったからと私は思います。そうでなければ、どの福音書もわざわざヨハネのことを書かないでしょう。

親友とは、言うまでもなく「いっつも一緒にいる人」ではありません。何でも話せることでもない。たとえ生活様式が異なっていても、その根底で目指すものが同じであることが「親友」の条件ではないでしょうか。

恋人同士は互いを見つめ合うけれど、親友は同じ目標を見つめている。いつだったか、どこだったか忘れたのですが、心に残っている言葉です。結婚生活は、互いに見つめ合いながら、同時に同じものを見つめていくのかもしれませんね。私も、イエス様だけを「先生」とし、イエス様だけを見つめながら、イエス様と親友になりたい、と強く思いました。 (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ ヨハネ

その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。