巡礼初心者江戸を行く その1(新シリーズ)

「江戸の空は青く晴れわたり、寒い日であった」。残された文献に、こう記されているのは、1623年江戸のキリシタン大殉教の日(元和9年12月4日)のことである。今日は平成29年12月2日(土)、「東京の空は青く晴れわたり、陽ざしが暖かい日であった」。私たち5人(2名のシスターズとつくば教会の信徒の方々3名)は、この日、江戸のキリシタン殉教地へ巡礼した。私は、数枚の資料と行程表を、Sr.東城は、歌とお祈りと昼食のおにぎりを準備し、信徒の方々と合流していざ出発。どうしても中高の教師をしていた時の癖が抜けず、それぞれに資料を配布すると、「皆さん、今日はよろしくお願いします。資料は、TX(つくばエキスプレス)の中でお読みください。行程表も付いていますので、乗り換え駅や時間をみんなで確認しながら巡礼をしていきましょう!○○さんと○○さんには、地図を添付してありますので、目的地の駅に着いたら、地図を見ながら先導をお願いします!○○さんは現地でのお祈りをお願いします!」この調子。みなさんTXの中で、ひたすら資料を読んでくださっていました。優しい方々に囲まれて、その間私はちょっと居眠り…。

つくば駅から秋葉原駅までは、わずか45分。茨城から東京にたどり着いたとは思えないほどの速さで、秋葉原に9時過ぎに到着し、ここからは徒歩で、カトリック浅草教会へ向かった。地図解読担当のお二人は、東京の狭く入り組んだ道をものともせず、迷うことなく私たちを目的地へと先導してくださった。江戸の殉教が始まる以前には、徳川家康が、マニラとの交易を目的に、フランシスコ会員ヘロニモ・デ・ヘスス神父に教会建設を許可し、現在の日本橋か八丁堀のあたりに、「ロザリオの元后聖マリア聖堂」と「修道院」が建てられた。神父が亡くなった後を継いだ同会のルイス・ソテロ神父の頃には、ここから東北や関西にも宣教へと出かけていたようである。ところが、二代将軍秀忠の時代になると、江戸城の敷地拡張を理由に、どちらも取り壊されたしまった。仕方なく、4キロほど離れた浅草のハンセン病院近くに小さな礼拝堂を造り祈りの場としていたが、これもやがて壊され、彼らは殉教への道を歩むことになる。イエス・キリストの教えに忠実に慈善活動に励み、互いに助け合いながらささやかに暮らしていた彼らであったが、日々増えるキリシタンに脅威を感じた幕府の政策により、この地の50名の男の信者が札の辻の刑場へと送られるのであった。

初めて訪れた浅草教会の庭と建物は、とても洗練されていて、知らない人はカフェかレストランと勘違いするのでは…と思うほどだった。しかし、一歩建物の中に足を踏み入れると、静けさと荘厳さに包まれ、当時のキリシタンたちの静かな祈りの声が聞こえてくるようだった。今日一日、このキリシタンの人々と共に歩くことが私たちの巡礼。司祭館のブザーを押すと、主任司祭の晴佐久昌英神父様が出てきてくださり、今週から始まったという「オタク家族」の集まりの話をしてくださった。アニメやゲームといったものにはまる若者の会話の場なのだそうだ。殉教者とまでは言わないが、現代社会の中で、自分の居場所を見つけることが難しい、自分の好きなことが理解されない、端の方に追いやられている、と感じている若者たちの声に耳を傾けていかなければ、私たちも当時の幕府側の人間のようになってしまうのかもしれない。

予定を少し過ぎた10時10分、速足で総武線浅草橋の駅に向かった。ここでも地図解読担当のお二人の活躍で、迷わず駅に着き、思いがけず予定より早い電車に乗ることができた。 (Sr.高橋香久子)