2018年3/18 若い人のための日曜日の聖書  四旬節第五主日 ヨハネ12:20-33

「ホ、ホンジュラスのどこですか?」

15年前の1月末だったと思います。近くの調布カトリック教会で小さなパーティーがありました。招かれて出席していた私は、一人の青年と目が合いました。

私はその時、初めて中米に三カ月滞在して、帰国したところでした。そして、すぐまた中米に戻ることになっていました。そのように、私は青年に自己紹介しました。

立食パーティーですから、まわりはとても騒がしかったです。

青年は、急き込むように「中米のどこの国ですか?」と私に訊ねました。普通、「中米」と言うと、「それいったいどこ?」という反応が多い中で、国まできかれるのは珍しいことでした。

「ホンジュラスです」。「ホ、ホンジュラスのどこですか?」青年はさらに身を乗り出して尋ねます。

「サンタ・バルバラです」。「私は、つい最近まで、そのすぐ近くにいました」。

実際、彼と私とは、ほぼ同じ時期に直線距離で百キロ(ただし山道をバスにゆられて4~5時間)ほど離れたところで、ホンジュラスの初体験をしていました。

そして、彼にとっても私にとっても、ホンジュラスの初体験は強烈でした。

さらに、彼も私も、滞在先は女子修道院でした。私はもちろんコングレガシオン・ド・ノートルダムのシスターたちが宣教活動や教育活動を展開しているところ。彼は、JICAでホンジュラスに派遣されていた友だちの派遣先の、女の子のための施設、聖アントニオ女子孤児院をもっている別の女子修道院でした。

私たちが意気投合したのは、言うまでもありません。二人とも、帰国して初めて、「言葉の通じる相手」に出会った思いでした。

私はその後2回ホンジュラスに派遣され、通算で2年半ほどいました。彼は…それから15年にわたって、仕事の合間を縫っては募金活動をし、毎年一回その孤児院を訪問していました。訪問後は必ず募金の収支決算書を添えたパンフレットを発行し、私にも送ってくれました。私がホンジュラスにいる時には、バスに乗って訪ねてくれましたし、私も彼の滞在先を訪問しました。孤児院の中の彼は、とてもリラックスしていて、女の子たちのよいお兄さんでした。

6年くらい前に、SS学院に一度お招きしました。神父様やシスターで海外の貧しい国のために貢献している人はたくさんいます。でもそのような特別な生き方でなく、ごく普通の人が淡々とボランティア活動を続けている姿を、生徒たちに見てほしかったからです。生徒たちは、彼の本質を見抜いて、大きな刺激を受けてくれました。

私は、彼の活動に本当に頭が下がります。私は、宣教活動や教育活動で辛いことや嫌なことがあったら姉妹たちにしゃべって、ストレスを発散したり、別の見方を与えてもらったりできます。また、そのための資金も、労せずしていただくことができます。修道生活とはそのためにあるのですから。これが修道生活の利点です。

でも彼は、いったいだれに愚痴をこれがこぼしているのでしょう。神様かしら。

私は、彼のこの生き方こそ「一粒の麦」の生き方と思います。自分一人の安定した生活を求めず(つまり自分に死んで)、たまたま「袖すりあった」他者のために一所懸命力を尽くしているからです。そして、いっさい見返りを求めないからです。ホンジュラスの片田舎の、親たちに見捨てられた子どもたちの他に、彼の活動を知る人は多くありません。

もちろん、彼は罪ある人間の一人です。でも、私には彼のさわやかな生き方がイエス様の生き方に重なって見えます。そして、この生き方こぞ永遠の命に繋がるものと確信しています。

Mario小野健治さん、勝手にあなたを私のエッセイに登場させてしまってごめんなさい。でも、あなたを私の友だちとして引き合わせてくださったのは神様です。私は、あなたの活動のために祈ること、折に触れてできる形で「ホンジュラス義援金」を広めることをお約束します。私も、「一粒の麦」の生き方ができるよう、どうぞ祈ってくださいね。  (Sr.斉藤雅代)

※小野さんのHP「一瞬のホンジュラス」は、http://www.honduras-src.com/

≪聖書箇所≫ ヨハネ12:20-33

さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。